潮の呼ぶ声

潮の呼ぶ声

2021年7月24日

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「潮の呼ぶ声」石牟礼道子 毎日新聞社

「もうひとつのこの世」以来、石牟礼道子を読みたくなった。と言っても、少しエネルギーが余計に要る読書になるので、時間もかかるし、気力が充実した時でないと進まない。そんなわけで、かなり長いことかけて読みきった。これは、1990年代に種々の雑誌に書かれたエッセイ(?)を集めたものである。

渡辺京二が書いていた石牟礼道子の文学の独自性が、なるほど言われてみるとそのとおりであると思えてくる。知識や学歴のある都市生活者とは全く別の価値観、豊かであるということの意味がここには存在している。

チッソという企業は、ある時期まで水俣の人々の希望の光であった。人々はチッソを誇りに思い、大切にしてきた。おっかさま、親さまというような上の人たちに対する日本人の自然な気持ちがこの人たちの心にはあった。「国」に行けば、国の顔をした親がおんなさる、チッソ本社の一番偉い人は親さまに近い人であるという気持ちをもって患者さんたちは不自由な体で東京に出ていき、会社側から「この場所は交渉事の場でございますから、そういう文学的なようなことをお聞きする場ではございません。」「患者さんたちがあまりたくさん名乗り出てこられると、チッソはつぶれてしまいます。」という言葉をぶつけられた。

患者さんたちは会社のえらい人たちなら格別、人情深い人だろうと思い込んでおりまして、つまり、自分たちの行くことができなかった学校に行けた人たちだから、まあ患者さんたちは小学校も出ていらっしゃるか、いらっしゃらないか、そういう人たちが圧倒的に今でも多いのですけれども、チッソの上の人たちは自分たちが行った学校と違って、最高学府に行かれた人はよっぽど崇高な仁愛をもった人たちであろうと思っていらっしゃいました。
 今もそうですけれども水俣から見てみますと、そういうふうにえらいということは先ほど申しました親さまというのに通じるんですね。上の人になると徳目をつんだ情愛をもった人たちであろうと思っておりましたんですね。まったくの幻想ですけれども、そう思い続けてやっと対面できた上の方々から、まさかそういう言葉が出てくるとは思っておられませんでした。それで、非常に不思議に思われて「あなた方は東大までも出なはったんでしょう」と言うんですね、「それなのにあの、人間の心の、どうしてわかりなはらんとですか」と、口々にとても不思議がって言われるのです。人一倍わかる方々とばかり思っておられましたもので。
              (引用は「潮の呼ぶ声」石牟礼道子 より)

私は、今でも忘れられない。ネットを通じて若い学生さんたちと語り合った場で、とても優秀な青年が、例えば戦争体験などは、客観的な資料を残すだけにして、体験者の証言などは聞かない方がいい、でないと感情に流されて冷静な判断ができないから、というようなことを大まじめに言っていたことを、ことあるごとに思い出す。私は彼に、きちんと反論しきれなかったことが今でも悔やまれてならない。

チッソの偉い人、「国」の上の人たちは、きっと資料を元に冷静な判断をし、水俣の患者さんの被害への対価を計算した。企業の存続と、人一人一人の生命への対価を秤にかけて、バランスの良い落としどころを計ったのだろう。それは「親さま」の守るべき弱い者たちへの温かい眼差しや心配りとは対極のところにあった。

水俣の人たちは、自分たちの食べるものを海から得ていた。貧しい人たちであったが、豊かな海から豊かな命をいただいて生きる、豊かな日々を過ごしていた。海を奪われた彼らは、木の船をしつらえて、東京まで海伝いに水俣の現実を伝えに行くことを企てる。小さな木の舟は、ボロボロになりながらも、見事東京湾にたどり着いた。水俣の海を出るとき、患者さんたちは、もうその舟に乗る体力が残っていなかったが、自分たちの「魂」を乗せるといって不自由な体で見送りをした。東京ではその魂を迎え入れる儀式がひっそりと行われたのだが、チッソの人も、「国」の人も、そんなものに興味は示さなかった。それは、客観的な資料に載せるべき出来事ではなかったのだろう。
豊かであるとはどういうことか、学ぶというのはどういうことか、生きるとはどういうものであるか。石牟礼道子の本を読んでいると、そんな根本的なことにつきあたる。今、福島で起きていることは、水俣の繰り返しではないのか。東電や国の偉い人は「親さま」のような心を、自覚を持っているのだろうか。私たちが大切にしなければならないのは、客観的な資料だろうか、それとも目に見えない「魂」だろうか。

2013/10/7