老いへの歩み

老いへの歩み

2021年7月24日

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「老いへの歩み」黒井千次 河出書房新社

「老いの味わい」に引き続き、黒井のじいさまのエッセイを読んでみる。私の父親世代の男性のエッセイである。そうか、彼らはこのようにこの世を見ていたのだな、と改めて知るようなところのある一冊である。

私が「おお」と思ってしまうのは、たぶん、書き手御本人は全く意図していないような部分ばかりであると思う。彼にとって当たり前、自明のこととして書き流しているような部分。

たとえば、自分の父が年をとっても、いわゆる「老人」とはついに思うことがなかった、ということを書いた「父親像と老人像」。父親が、絶対的保護者から、思春期の様々な欲求を禁止制限する抑圧者、敵となる。が、強いはずの敵との力関係に微妙なアンバランスが生じてくる。父が病に倒れ、父を庇護しなければならないという気持ちが生まれる。が、幸いにして健康を取り戻し、以前のように父は仕事に復帰する。生命力のどこかの一点で父を追い越してしまった、という意識ができる。絶対の強者でも絶対の弱者でもない人間としての父。

かと思えば急に体の不調を訴え、医者を呼びに走ったり、救急車を依頼するケースもあった。冴えない顔色でソファーに横たわってしまった父親に、息子は立ったまま上から声をかける。緊急の際の細々とした世話は母や妻がこなすのだが、息子は弱者と化した父親を見つめている。
 それでいて、父が老人になった、との実感は遂に抱かぬうちに終った。充分に歳は取ったのに、体は明らかに衰えたのに、やはりいわゆる老人であるとは思えなかった。
                
              (引用は「老いへの歩み」黒井千次 より)

そりゃそうでしょ、と私は思う。父親が倒れて緊急事態に陥っても、筆者は、立って見てるだけなんだもの。細々したことは、母や妻がやるのだもの。力のない体を支え、起こしてやり、柔らかいもの、飲み込みやすいものを作っては運び、すくい、弱った口に運んでやるのも、痛む体をさするのも、下の世話をしてやるのも、干からびた体を拭いてやるのも、全部細々としたことで、母と妻がやってるんだもの。著者は、緊急時にすら立って見ているだけなんだもの。

父が老人になった、と思い知らされるのは、そういった細々としたこと一つ一つの積み重ねだからね。そこは全部女たちの仕事であって、自分とは関わりがなく、ただ、父という存在と対峙している精神的な自分、だけを見つめているのであれば、父親はずっと父親であり続けるでしょうよ、と、むしろ私は愕然として思うわけである。

なんだかねえ。その後も、畳の上で死ねないのは、死に向かう苦しみを、周りのものが見るのが辛いから、そこから逃げられるからだ、みたいなことを書いているけれど、病院に入れたって、周囲の者は、その苦しみを見続けるしかないんだよね。と言うか、畳の上にいたほうが安らかなことだってある。でも、その年代の男性は、父親を病院に入れちゃえば、気が向いたときに様子を見に行って、さっさと帰れるからね。ただそれだけだからね。

なんて思うわけである。ああ、その年代の男性たちと、私達女性との間にある、深くて暗い河よ。今は、その河は、埋め立てられつつあるのか。まだ、水は流れ続けているのか。などと、おそらく筆者の狙いとは全く違う方向に、私はどんどん向かっていってしまうのであった。

2019/7/22