老いの味わい

老いの味わい

2021年7月24日

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「老いの味わい」黒井千次 中公新書

 

選本眼に信頼のおける友人からおしえてもらった本。八十歳オーバーのじいさまのエッセイである。これがなんとも味わい深く、また、身につまされるものであった。
 
子供の頃、叔母の家に遊びに行くと、その背後にびっしりと紙の箱が積み上げられていて、何が入っているのだろうと子供心に不思議に思っていたが、実はあれはすべて空箱であった、いつかなにかに使えるのではないかと捨てられずに取ってあるだけの箱であった、というエピソードから始まる。
 
そして更に時の経った後、あれは実は空箱ではなく、中には叔母の生きた時間がぎっしり詰まっていたのかもしれない、と気づいた。
 
そして、似たようなことを自分もやっていて、書類の束や資料やファイル、古雑誌などに囲まれ、いつ捨ててもいいと思いながら、変な執着が湧いていることに気づく。思い切って捨てても、その空間にはまた新しいものが積み上げられる。
 
年寄りによる整理は、時には自分自身まで見失いかねぬ危険な作業である、と自戒し無用な品々に囲まれて暮らしている。
 
そうなのだ。今、父を亡くした母が、一人で実家の整理に黙々と励んでいる。まさしく、「なにかに使えるかも知れないから」と溜め込まれた空き箱、紙袋、端布、雑貨、古着、写真、書類などをせっせと取り出しては試すがめつ眺め、ちょっとだけ処分して残りをしまい込む、という作業に没頭している。すべてを捨ててしまうと、きっと心のバランスを崩してしまうだろう、という危うさを含んだ作業である。
 
更に、人のことは言えない。我が家にも、夫婦二人で三十年以上かけてせっせと溜め込んだ膨大な量の書籍がある。今の家にきて、二階に書棚部屋を作り、ずらりと書棚を並べて九割がたの本を押し込んだ。で、どうなったかというと、ほとんどその書棚を眺めることもしていない。日頃は一階で生活し、ほとんど二階に上がりもしない、書棚部屋に入りもしない。であるのなら、「あそこには本がある」と思いこんでおけば、いつの間にかあれらの本が全てなくなっていても、精神的には同じことなのではないか、などと妄想してしまう。でありながら、「あそこに本が並べてある」と思うことは、実は想像以上に我々の心に何らかの充足をもたらしているのではないか、などと思いもする。
 
自分より少しだけ若い老人が、男女交えて楽しそうに会話しているのを見ると、黒井氏は「男女共学的な」という形容をする。なるほどな、と思う。十代に入ってすぐ男女別学となり、それ以降はフラットに女性とかかわらずに生きてきた世代の男性方には、妻でも部下でも接待業でもない女性と同じ立場、同じ目線に立つという経験がないのだろう。それを「男女共学的な」という言葉の選び方が教えてくれる。
 
先日、新派の舞台「夜の蝶」を観に行った。河合雪之丞と篠井英介の交わるこの芝居は美しく、時代がかったものであった。たしかに面白くはあったのだが、どこにも共感できる部分はなく、これを今の時代に見せても、郷愁的な感傷以外は得られない気がした。なぜなら、ここに登場するのは、銀座の酒場を切り盛りする女性たちであり、そしてまた子供の母親ではあったが、それ以上でも以下でもなかったからだ。たぶん、この脚本が書かれた時代には、それが当たり前であったのだろうが、書き手が知っている女性とは、母親、妻、酒場の女性、それで終わり、だったのであろう。彼らは、怒ったり泣いたり笑ったりしながら生活するフラットな女性像とついに出会わずに生きていたのだと思われる。
 
黒井氏は、そんな男性の最後の世代の人なのだろう。それ故に、毎日の生活を描きながらも、どこかで生活感が抜け落ちているような感覚がある。だが、だからこそ、淡々と客観的に老いの日々が描けるのかも知れない。どこのトイレットペーパーが、そのスーパーよりも十円安かった、的な感覚をつい持ち続けるおばあちゃんたちにはない、仙人のような・・とまではいい難いが、べったりした生活からは、少しすうっと浮き上がったような視点が感じられて、それが良い風味となっているようにも思える。
 
逆に言えば、こんな落ち着いた老人に、私はなれないだろうなあ、と。
 
 (引用は「老いの味わい」黒井千次 より)

2019/7/12