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「新編 解剖刀を執りて」 森於菟 筑摩叢書
さて、引越し準備は着々と進んでいる。何しろ結婚した時から数えて十回目の引越しであるから、慣れたものだ。毎日淡々と荷物を詰めれば、いつの間にか段ボールが山となっている。
ではあるが、いつもと違うことがある。どうやら年をとったようなのだ。いつもなら楽々と持ち上がるはずの段ボールがやけに重い。小型の箱を三つ重ねるのくらいわけもなかったはずなのに、三つ目の高さに荷が上がらない。果ては、毎夜毎夜、腰やら腕やらがやけに痛む。そして、早々に気を失ったように眠ってしまう。うーむ。引越しは体にこたえるぜ。
森於菟は森鴎外の長男である。東京大学医学部、理学部を出て解剖学を専門とし、ドイツにも留学して、最後は東邦大学の名誉教授となっている。この本は、解剖を基本としたエッセイをまとめたもの。解剖のデイテールは、読んでいてうぷっとなることもあるほど真に迫りはするが、冷静でありながらもどこかユーモアの潜む文章は、なかなかすばらしい。さすが、森鴎外の息子である。
なぜ、私が引越し準備で歳をとった話なんぞをしたかというと、この本の最後にある「耄碌寸前」というエッセイが良かったからだ。
私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがよくわかる。記憶力はとみにおとろえ、人名を忘れるどころか老人の特権とされる叡智ですらもあやしいものである。時には人の話をきいていても異常に眠くなり、話し相手を怒らしてしまうことすらある。
から始まるこのエッセイは、
若者たちよ、諸君が見ているものは人生ではない。それは諸君の生理であり、血であり、増殖する細胞なのだ。諸君は増殖する細胞を失った老人にとって死は夢の続きであり、望みうる唯一の生かもしれないと一度でも思ったことがあるだろうか。若者よ、諸君は私に関係がなく、私は諸君に関係がない。私と諸君との間には言葉すら不要なのだ。
という啖呵で終わる。解剖学を仕事とし、死体と日々向き合って来た老人の自身の死との向き合い方に、私は凄みすら感じる。
(引用は「解剖刀を執りて」森於菟より)
2013/3/25