超・反知性主義入門

超・反知性主義入門

2021年7月24日

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「超・反知性主義入門」小田嶋隆 日経BP社

小田嶋隆を割に読む。論旨が明快でわかりやすい。反論を恐れずに自説をまっすぐ書く。少なくともその姿勢が好きだ。この本は2013年から2015年までのネット上の連載コラムをまとめたもの。八年くらい前のことなんて、本当に呆れるほど忘れているものだなあと思う。

その時々で話題になったことを取り上げて書いてあるのだが、今回、一番共感したのは甲子園の高校野球についての文章である。私はスポ根が大嫌いで、集団競技が苦手で、野球やサッカーやラグビーなどもめったに見ない。たまに見て面白がることだってあるが、自分がやりたいと思ったことはないし、我が子がやりたいと言ったら止めはしないが、なんだかなあとは思ってしまう。それはなぜか、というと。

 全力を尽くすこと。一丸となること。歩調を合わせること。声を出すこと。休まないこと。
 どれも野球技術の工場に大切なものだし、非人間的な教条ではない。が、甲子園を甲子園たらしめるこれらの原則を徹底させると、チームは、ブラック企業とよく似た組織になる。
 個々が「全体」の部品に徹すること。私心を捨てること。わがままを言わないこと。
 ほらね。でもって、そうした「滅私奉公」は「美談」として称揚され、個々の脱落は、「全体」への裏切りとして処罰されるようになる。
 (中略)
 もうひとつ言えば、届かないボールへのダイビングに拍手を送り、攻守交代の全力疾走を義務付け、プレー中の談笑やジョークを禁じる甲子園の精神主義は、体制の不備や、補給の欠乏や、兵員の貧弱を全て「精神力」で補おうとした帝国陸軍の精神主義をほとんどそのまま受け継いでいる。当然の話だが、この精神主義はブラック企業の玉砕経営手法にも通底している。
             (引用は「超・反知性主義入門」小田嶋隆 より)

だからである。もうね、この記述には心から賛同する。私はこういった全体主義が心の底から嫌いなのである。だから、そこに引きずり込まれそうなことに対しては生理的に嫌悪感が出てしまうのだ。

と言っても、今や甲子園で野球ができるかどうかも定かではない世の中になってしまっている。ましてやオリンピック。同じような理由で、私はオリンピックもそれほど好きではないのだが。やめるからやめるってさっさと決めちゃってよ、バカみたいに、できる、やれるなんて言ってないでさ。と心から思うのである。

2021/1/24