飢餓浄土

飢餓浄土

2021年7月24日

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「飢餓浄土」 石井光太 河出書房新社

「絶対貧困」「地を這う祈り」などを紹介したことがある石井光太氏の新作。今まで、読むと痛い、苦しい物が多かったけれど、この本は、まだ、ゆるい方ではないかと。というのも、テーマになっているのが、霊や幻影、幻想など、実態のないものなのだ。何が怖いって、霊よりも生身の人間のほうがずっと怖いよねってつくづく思う、そういうことだ。

決して死なない白い日本兵のうわさ。無敵の双子の子どもの司令官のいるカレン族の軍隊。妊娠している娘とその年老いた母親のセットの売春婦。どれも、何が本当なのかわからない幻想に包まれ、それゆえに人を翻弄する。

だが、そんなことよりもむしろ私が唖然としてしまったのは、タイ北西部のメーソットという町にいるミャンマー難民に蔓延するHIVの話だった。白人よりずっと貞操観念が強く、若いうちに結婚するので多数との性交渉を持つ機会もないはずの彼らに、なぜ、HIVが拡大するのか、その原因が分からないのだ。麻薬の習慣もなく、同性愛が原因でもない。では、なぜ?

その理由らしきものを石井光太は知るのだが、いや、それは・・・男って馬鹿よね、ですむ問題ではないのだ、もはや。そして、人々の意識を変えるということは、如何に困難なことか、と改めて考えこんでしまう。どんなに予防医学を教え込もうとしても、意外なところから、問題は起きてくる。そして、それに気がつける医師、看護師がどれだけいるのだろう・・・。

人間って、そういうものなのだ、と思う。科学的、論理的に正しいことが必ず通るのが世の中ではない。幻影、妄想、思い込み、そして、不思議な力が支配する部分を、理性的な科学者、政治家、篤志家、ボランティアは見落とす。どんなに論理的に正しくても、それが正しいわけではない、という現実に私たちは突き当たる。

何度でも、私は思い返してしまう。Z会員の、とある優秀な若い人達と幾つかの討論を経て、彼らの論理は理屈はとても正しく優秀でありながら、しかし、そこには血の通う人間がいない、と何度も思ったことを。正確なデータさえ残せば、人間の証言など残さないほうがむしろ正しい判断が出来るのではないか、と歴史的事実に対して論じた優秀な若い人がいたことを。目の前に自殺しようとする人がいたら、自分だってそりゃ止めるだろう、でも、論理的には、法的には、人は自殺する権利がある、それが正しい、というひとがいたことを。それらは正しいのかもしれない。けれど、そう主張する彼らに、メーソットでHIVが蔓延する理由はきっと見つけることはできない、と思ってしまうのだ。

彼らに向かって私が発する言葉はあまりにも無力だった、と今でも思う。いつかこの国の中枢を担うかもしれない彼らに、ただのおばちゃんの私は何も出来なかった。そのことを、私はずっと忘れられない。

人は、愚かで、弱く、しかし、だからこそ強く美しい。
私は、いま、なにができるのだろう。
と、今でも考えてしまう、私は。

2011/8/15