黄落

黄落

2021年7月24日

「黄落」佐江衆一

パルティオゼットの日記に、お友だちからコメントをいただき、それに触発されて、読んだ本です。

老いの日々を想像することが多くなったのは、老いて来たからなのでしょう。夜中にふと目が覚めて、家族の寝息を聞きながら、「もし一人ぼっちだったとしたら・・」と思っただけで、気が遠くなるほど寂しい気持ちが押し寄せてきたことがありました。子ども達には頼らない、自分の老いくらい、自分でなんとかするわ、と思ってはいても、現実に出会ったら、ぐずぐずと崩れてしまうかもしれない、と思ったりもします。

この本は、映画化もされたそうです。自身も六十だというのに、老親を介護する。その壮絶な日々を描いた小説です。

壮絶、と書いたけれど。本当は、壮絶なのは、主人公の奥さんなのですよ。本当に、良くできた人です。腰痛で苦しいのに、自分の親も、実家で介護を受けていて、時としてそれを見舞いにも行くと言うのに、血もつながらない、夫の両親に、驚くほど我慢強く、暖かく介護し続ける。読んでいて、頭が下がります。であると言うのに。主人公は、それにきちんと感謝を表現することすら出来ない。いたわりの言葉をうまくかけることすら出来ない。そうでいて、「わかってくれるはずだ」「通じていると思った」などとほざき続けます。あげく、イライラがつのって、妻を突き飛ばし、謝ることもできず、「離婚しよう、そうすればきみは自由になれる」などといきなり、宣言する。後は自分が引き受ける、などと啖呵を切りますが、そんなこと、できるわけもない。「オムツを替えてよね」が妻の返事です。ああ、やってやる、やってやるよ、とはじめてオムツを替える主人公。そして、打ちひしがれるのです。

老親の介護の問題を描いた作品なのに、私はこれを読んで、主人公の情けなさを一番感じてしまいました。大きなことを言うくせに、現実の細かなひとつひとつを乗り越えることが出来ない、対処できない、自分の体面ばかりが大事で、思いやることも、本当に理解することも出来ない。オムツを替えろ、といった妻の気持を本当に理解したのだろうか、それが何を意味しているのかを受け取ったのだろうか・・・。

でも、この人は、まだまだ誠実な方なのでしょう。現実には、老人介護は、嫁の手に、ひたすら押し付けられていて、家族すら、その困難さを受け止めきれていないことが、余りにも多いのです。

義母が入院したころのことを、思い出しました。遠方に住んでいた私たちです。平日は会社で働き、週末、新幹線に乗って、二日間の病院泊り込み付き添いに通い続けた夫。私も、実母に助けに来てもらって、何度も平日に付き添いに行きました。病院での泊り込みは、先の見えない不安と、病人の辛さと、家族の不自由さが絡み合って、本当に苦しかった。義母が亡くなって、悲しいはずなのに、心のどこかで、やっと終わった・・と安堵の気持ちがあったのです。それは、とても悲しい現実。忘れられません。ただ、それを乗り越えながら、私たち家族は、もっともっと強く結びついた気もします。

ほんの数ヶ月でもあれほど辛かったのに、ゆっくりと老いて行く親たちを介護し続けるのは、その何倍も何倍も、たいへんなことでしょう。助け合わなければ、互いに感謝し、いたわりあい続けなければ、とても乗り越えることは出来ません。いえ、そんな精神的なものだけが問題なのではないのですが。

安心して、老いを迎えることの出来る社会。私たちは、どうやって老いて行くのでしょうか。愛情だけでは、難しい。社会が、システムが、もっとしっかり支えていかなければ、総崩れになってしまいます。

2007/11/1