43回の殺意

2021年7月24日

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「43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層」

石井光太 双葉社

 

2015年に川崎で起きた凄惨な少年殺人事件を追ったルポ。中1の少年を、年上の少年三人が寄ってたかってカッターで43箇所も切りつけ、そのうえ冷たい川の中を泳がせて放置し、死に至らせた事件を、関係者のインタビューを元に掘り起こしている。
 
当時、報道を聞いた時、あまりに凄惨な事件だったので、具体的な状況を想像しないように、想像しないようにしていたことを思い出した。それなのに、こんなに具体的に克明に描かれた本を読むなんて、どういうことなんだ、私、と自分で自分に問いたい。
 
丁寧に一人ひとりを追っていってわかるのは、被害者も加害者も、あまりに悲惨な家庭に育っているということ。そこに悪意があるかどうかは別として、結果的に放置され、放棄され、あるいは虐待され、安心できる居場所をついに持てないまま、その日を迎えてしまっている。
 
そう、悪意があるわけではない。ただ、彼らの周りにいる大人たちは、無関心だったり、時間やお金がなかったり、注意を払う能力がなかったりするのだ。その結果、子供たちは追い詰められる。どこで何をしたらいいのかがわからない。人の気持ちを思いやったり、想像したりという経験も持たない。そして、まともに人と会話することすら忌避する。
 
少年たちを非難し糾弾するのは簡単だし、あるいは彼らの親たちにそうすることだって簡単だ。でも、それで事は解決するのか?誰かが悪かった、そもそも悪いやつだったから刑務所に入れればいい、出さなければいい、なんだったら死刑にすればいい。それで終われるのか?
 
クソみたいな家庭に育ったやつなんていくらでもいる、それでもなんとかやってる、というセリフが本の中に出てくる。そうなんだろうと思う。ひどい家庭に育っても、頑張ってそこから這い出そうとする人間はいる。しあわせになろうと考える人もいる。でも、そこに至らないで、ぐずぐずとその中で這いずり回るしかできない少年たちだっている。
 
どうしたらいいのだろう。どうすればいいんだろうねえ、と考える。誰かが、少しでも気づいてあげられたら。手を差し伸べられたら。ほんの少しでも、安心できる場所と時間を作ってあげられたら。そうしたら、違ったのだろうか。
 
人間って、心を持っているからね。おなかがいっぱいになって、寝る場所があって、着る服があって、雨露をしのげても、それだけじゃ全然満たされない。心を満たすものは、別に要る。そして、子供の心を少しでも満たしてやるのは、大人の責任じゃないかと、やっぱり思う。
 
共感する、認める、受け入れる、抱きとめる。子供がほしいのは、きっとそれだ、と思う。

2018/5/5