96 大滝ジュンコ 山と渓谷社
朝ドラ「虎に翼」に、日々勇気と元気をもらっている。毎日起きる出来事が「わかるわかる」「そうだよね」に満ちている。こんなにいろいろなことにぶつかりながら女性たちは生きてきたし、今も生きている、と思い知らされる。そして、それでも前を向いている人たちに勇気をもらっている。
そんな流れの中で、この本の題名を見た瞬間「嫁かよ」と思った。嫁という言葉に含まれるネガティブな要素が山ほど頭に飛来した。結婚して初めてのお正月、義母の実家に行ったら広間には見事に男だけがずらりと並び座り、ご馳走を前に酒を酌み交わし、女たちはみんな台所で料理をしながらおしゃべりに興じ、広間にお酒や食べ物を運び、御酌をして回っていた。それが嫌ならあんたもあそこに座って飲めばええよ、でも私らはここでこうして気楽に裏方をやるのが楽しいんやさかい、と言われたっけ。そんな場に行くことは、その後はほとんどなかったけれど、法事などでは似たような状況があった。「嫁」という言葉を見ると、私はその時の広間の様子を思い出す。別に広間で酒を飲みたかったわけじゃない。でも、女は当然、裏で準備をし、後片付けをするものだという現実にびっくりしたことは確かだ。こんなことが本当にあるんだ、と思った。
この本の作者は現代アート作家として活動していたが、ある時友人の誘いで山熊田という、新潟の、山形との県境にある山村のマタギたちの飲み会に参加、気が付いたらマタギの「嫁」になっていた人である。住民40人以下、ほとんどが高齢者の村に嫁いだら現代の日本とは思えない生活が待っていた。そんな場所に「嫁」に行くのがどんなに大変なことか、と想像しながら読んだら、この作者はそれを十分に楽しみ、学び、享受している。
夏。優しい村の人たち、あふれる自然。薪割りがどんなに大変でも様々な樹種の違いは面白い。中から出てくる白い芋虫はイワナやヤマメ釣りの餌となり、ケヤキの灰は良い灰汁となる。重労働なのに、村の人たちはただで手助けに来てくれる。終わった後の酒盛りは最高。
秋。秘密の舞茸の場所だけは、村人も教え合わない。自然薯や赤かぶを収穫し、ヤマドリを狩る。誰かが山から戻らないと、村中が総出で捜索し、老人たちも心配して集まる。
冬。雪のなか、女たちはシナノキの樹皮を糸にしてしな布を織る。海側の交流のある人たちからは大量の鮭が届き、マタギたちはヤマドリや鴨、秋熊や赤かぶをお返しにする。お金のためではなく交換される海の幸と山の幸。各々のポジションで出来る限りの整備や資源管理をし続けてきた自然の恩恵のやり取り。
春。男たちはクマの巻狩りに乗り出す。女たちはゼンマイなどの山菜取りに忙しい。腰や足が痛かったはずの年寄りたちが草木を掴んで崖を登り、沢を飛び越える。
それらの生活は生き生きとしてとても楽しい。だが、高齢化の進んだこの村では、ある日突然、動けるものが半分以下になってしまうという危険性もはらんでいる。そしてまた「嫁」として子どもはまだかと何度も聞かれたり、まさか女人禁制の熊狩りには行くまいね、と心配されたりもする話もさらっと描かれていたりする。
長く育まれた村の伝統に敬意を表し、熊狩りのような危険な場に女性を置かないように女人禁制が行われていることに理解を示しながらも、作者は少しずつ状況を変えようともしている。たとえば、しな布作りは、後継者を作らずに儲けだけを求める親方制度が敷かれていたので、自分の工房を作ってそこに若い人を招き、指導を受けられるようにしたり、イネをやみくもに密集して植え付けないほうが収穫高を得られることを説得したり。それらのことを彼女は「伸びしろたっぷり」と表現する。
「嫁かよ」と最初に私は思う。けれど、彼女は自分を「嫁」とおおらかに表現し、内部にどっぷりとつかりながら、少しずつの変革を目指して生きている。いろいろなやり方があるのだな、と思う。そして、彼女のバイタリティに敬意を感じる。こうした過疎の村に、少しでも新しい風が吹くといいな、と私は思う。