いねむり先生

いねむり先生

2021年7月24日

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「いねむり先生」 伊集院 静   集英社

妻を亡くし、荒れた生活を送っていた伊集院静が、色川武大(阿佐田哲也)氏と知り合い、その関わりの中で、人間として立ち直っていった経過を描いた物語。なのだろう。

なのだろう、と書いてしまうのは意地悪というか、いやらしいのだろうな、と思う。思うんだけど、なんだか私は、この伊集院静という作家を信用できない。いつもそう思いながら、時々読んじゃうんだから、やっぱり騙されてるよな。だって、うまいんだもの、確かに。

幼い頃から分裂症と診断されたこと、時々からだの中に何かが貯まっていく感じ、重度のアルコール依存症、自分でもどうしようもない発作とそれへの恐怖。自分の中にあるそんなものを明らかにしながら、作者が先生(色川武大)にそれを全的に肯定され、受け入れられ、癒されていく感覚が描かれている。先生もまた、自分の中に壊れたものを抱え、それに苦しみながら、生きているのだ、とわかっていくのだ。

二人で競輪の旅打ちに出かける。高額の掛け金の麻雀を打つ。手本引きや、サイコロ賭博、怪しげな薬も試してみる。寂れ荒んだ芸人との関わりがあり、ヤクザな人間との温かい交流がある。

なるほど、色川先生は、暖かく広く包みこむような素晴らしい人だったのだろう。だろうとは思う。だが。

借金して、身を削って、旅回りで博打をうち、ひどいアルコール依存症で暴力をふるってきたのに、まだ酒を飲み、先生の悪い噂を流すヤクザに義憤を感じる・・・。何だ、これは、と思ってしまう私は、ガチガチのつまんないただのおばさんなのだろう。だけど、何なの、これは、と私は思う。こんな男って、と。

そうやって、放蕩することが、美学なのか。金を湯水のように博打につぎ込んで、身を持ち崩して、己を憐れむのが、美しいのか。あなたも同じだったのですね、と気づいて、人間のどこかが壊れていることを、認め合い、分かり合うことは、それは優しいことなのか。

人として立ち直り、小説をまた書くようになった伊集院氏ではあるが。でもまだ博打は打ってるのよね。出版社に借金を重ねて、書いているのよね。

晩年の、体ががたがたになった色川氏は、一関に転居した。東京にいるといろいろな仲間が連れ去らうように賭場に連れて行ってしまう。病院から退院したその日に、酒場に連れ去らってしまうような「ともだち」が彼には何人もいて、このままでは死んでしまうと思って、妻が転居を決めた、と読んだことがある。

色川氏に依存する、彼の「優しさ」にすがる「ともだち」が何人もいたのだ。彼の優しさとは、どこまでもずぶずぶと受け入れる心の広さだったのだろうと思う。だけど、それは彼の命を奪った。彼が死んだ後、自分は彼に支えられ助けられた、と書いた人が何人もいたのを、私は覚えている。伊集院氏も、その一人だったのだなあ、とこれを読んで、私は思ったのだ。

2012/3/27