こどもホスピスの奇跡 短い人生の「最期」をつくる

こどもホスピスの奇跡 短い人生の「最期」をつくる

122 石井光太 新潮社

10日間もブログを更新できなかった。コロナがちょっと落ち着いてきて、また旅に出た。そのうち、旅行記も書けたらいいな。

石井光太である。彼の作品は、子どもの貧困犯罪にまつわるノンフィクションが多く、胸が苦しくなるようなものが多かったが、今回はちょっと毛色が違う。2016年4月、大阪の鶴見緑地に日本で最初の民間ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」ができるまでの経緯を描いた作品である。難病に苦しむ子どもたちとその家族、そして彼らを支える医療者の姿が描いてある。とてもつらい部分はあるが、その中で、短くとも生き生きと子どもたちが過ごせるような、そしてその家族が希望を持てるような物語である。

こどもの難病は、その数が少ないことから大規模な病院に集められることが多い。医師は、その病気を治すことが使命であり、そのためにはわがままは許されない。親の付き添いが必須であったり、決められた食事時間、外出、面会制限もあり、学習機会も奪われる。また、治療内容について本人への詳しい説明もなく、苦しい化学療法などが行われ、それを受け入れるための説得は親に任される。難病の子も大変だが、その兄弟もまた、困難を強いられる。親は疲れ果て、家庭には諍いが起き、たとえ病気が治っても両親が離婚したり、兄弟の人生が捻じ曲げたり、果てはそれがすべて自分のせいであると考えて自殺に追い込まれるこどもさえいる。

そんな状況の中から、少しでも難病のこどもが安心して過ごせ、家族もともに楽しめる、こどもの側に寄り添った場所を作りたいという願いが形となった。それが「TSURUMIこどもホスピス」である。

もう助からないとわかったとき、その子を家に帰して、望むこと、例えばディズニーランドに行ったり、買い物をしたり、遊びに行ったり、できることをすべてやりつくして最期を迎えた子がいた。その親が、納得した表情をしていたのを見て、自分は今まで何をやっていたのだろう、と思った医師がいた。

小学生のころから難病で何度も入退院を繰り返しながら、規則づくめの病院の中に子供たちが集まって楽しめる場所を作る提案をしたり、行政に働きかけたり、病気の高校生がオンラインで勉強ができるシステムを作る土台を作った若い患者もいた。彼は医師になることを夢見て勉強をかさね、有名私立高校に合格し、最後の力を振り絞ってセンター試験も受けた。亡くなったのはその十日後である。

そんな人々の努力の中で、ついに「TSURUMIこどもホスピス」は完成した。

実は、最初、ホスピスの候補地になったのは宝塚市の洋館であった。だが、高級マンションの立つその地では反対運動が起こったという。難病の子が集まる場所だなんて・・・ということなのか。私はその洋館のそばに住んでいた。緑と花にあふれた美しい場所であった。あんなところで病気の子供たちがのびのびと過ごせたら、どんなにいいだろうと思った。でも、反対されたのだなあ。悲しくなる。

ちなみに、鶴見緑地のそばにも住んでいたことがある。(転勤族はいろいろな場所に実感が持てるから便利。)鶴見緑地の花博記念公園もまた、緑と花にあふれた素晴らしい場所である。あそこならいいかもしれない、子どもたちも楽しめるかもしれない。

たとえ短い人生でも、その中で、生きていてよかった、と思える時間や経験を積むことは、その子にとっても、家族にとっても、とても大事なことである。つらい治療を乗り越えて完治に向かうのも大事なことだが、それだけが目的となってしまっては、生きることの意味すら失われる場合もある。人は、喜びや幸せをかみしめる時間なしには生きていけない。

私自身も随分と歳を重ねてしまって、これからどれくらいの時間が遺されているのだろうと思うことも多い。病気になって、ものすごく苦しい治療を受けるよりは、生き延びる時間が短くても楽しいことをかさねたい、と想像したりすることもある。どんな人生が正解かは人によって違うし、誰がそれを決めるのかも規定できない。ただ、子どもが苦しいだけの人生を送るのは、どうにもつらすぎると思えてならない。「TSURUMIこどもホスピス」のような場所が、もっと広がったらいいのに、と祈るような気持になった。