にんじん

にんじん

2021年7月24日

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「にんじん」ルナール 光文社文庫

 

東京都では、都民半額鑑賞会というありがたい制度があって、抽選ではあるのだが、幾つかの舞台を半額で鑑賞できる。今回は「にんじん」と「Beautiful」のふたつに当選したので見に行った。「にんじん」は大竹しのぶの還暦記念講演である。22歳の時にやった役を60歳で再演しようというのだからあっぱれである。前の方の席だから心配したけれど、ちゃんと少年であった。おお、化け物よのう、と感心した。
 
「にんじん」を見たいと思ったのは、大竹しのぶだったからというだけでもない。子ども時代から「にんじん」は何度も読んだ。何度も読んだのは、わからなかったからだ。おかあさんがひたすら息子をいじめるだけの話が、古典名作として推奨されている。何処かに良さがあるのだろう、どこかに感動ポイントがあるのだろう、でも、それってどこ?と不思議で不思議で、何度も読んだ覚えがある。ちっともわからなかったのだけれど、それでもなんだか引きつける力があった。後にルナールの「へび ながすぎる」などの詩を読んで、これって、あの人?と意外に思ったりもして。
 
あの「にんじん」をどうやって芝居にするんだ?と私は疑問だった。ましてや、それを子どもに見せてどうなるんだ?ひたすら、延々、母親が我が子をいじめる芝居を子どもに見せて、そこから何を学べと?それが知りたくて、舞台が見たいと思ったのだ。
 
芝居は、思ったよりもずっとウエットなものであった。そして、どうにかこうにか、にんじんという少年に心を寄せ、暖かく見つめる大人も(子どもも)登場し、にんじん少年も、最後には自分の道を行くという方向性を示して終わっていた。結局、にんじんが親を捨てる話なんだな、と思った。にんじん、がんばれよ、と観客が応援する気持ちを持てるほどには作られてはいたと思う。にんじんの母親の抱える辛さや父親の葛藤も描かれてはいた。が、やっぱり彼らは自己弁護ばかりの、反省のない、屑な大人であった。ちっとも共感できなかった。大人って嫌な奴らだな、と子どもに思わせる芝居なのかと思えてならなかった。
 
疑問は解消せずに終わってしまったので、帰宅後、書棚のポプラ社文庫「にんじん」を読もうかと思ったのだが、あとがきをみたら、書面の都合で少しエピソードを省いてあるなんて書いてあった。しかも、表紙のにんじん少年があまりに漫画チックで可愛らしくて、なんだこりゃ、であった。なので、図書館で探して借りてきたのが、この本である。
 
久しぶりに読む「にんじん」は思ったよりもずっと乾いた文体であった。もしかしたら翻訳者(中条省平)のテイストのせいかもしれない。そして、乾いているがゆえに、わかる、と思える部分が多かった。結局、これは、にんじんという少年の目を通してみた世界観である。この世は欺瞞や絶望に満ちているけれど、その中で淡々と生きていくしかない。理想や美しさや首尾一貫した論理などはない。だとしても、その中で、ささやかな人間らしい喜びに出会うことも、時としてはある。あらゆる感情を排した、乾ききった観察だけに徹した文体から虚無と希望が同時に伝わってくるような物語だった。
 
これは、本当に古典児童文学なのか?おとなが読むべき本なのではないか?と私は思う。
 
かつてフランスの児童文学は、かわいそうな子どもが主人公になるのが主流だったらしい。家なき子とかね。フランダースの犬とかね。子どもがかわいそうな目に遭う物語を読ませることで、自分はまだましだ、と思わせたかったのか。それとも、辛い思いをしても最後には幸せが待っているよ、と言いたかったのか。辛い思いをしている、ということこそが、特別な存在としての価値であったのか。
 
なんだかよくわからない。と、私はまたしても思ってしまった。「にんじん」はつらい物語である。この辛さを、読み手はどう消化していけば良いのだろう。私は、ルナールの父親が猟銃自殺したことや、母親が井戸で事故死したこと、ルナール自身も四十代で早死したことなどを知って、余計につらくなった。
 
人は、幸せであったほうがいい。あたりまえだけど、大事な真実だ。
 

2017/8/18