アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極

アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極

2021年7月24日

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「アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」
角幡唯介 集英社

この人の本はなんでも面白い。この本は、先日読んだ「探検家、36歳の憂鬱」と同時期に書かれていたので、あっちに書かれていたことがこっちで具体的に理解できたりする部分もあり、一層面白かった。

1845年、ジョン・フランクリン率いる探検隊が、北西航路開拓のため、英国を出発した。その足跡をたどって、角幡と北極探検家の荻田泰永が北極圏を歩いたのだ。この本には、彼らの旅の記録と、フランクリン隊の足跡が同時進行で描かれている。フランクリン隊は129人の隊員がいたが、その全員が死亡した。そのため、どのような経緯で彼らが破滅に突き進んでいったのか、不明な点が多い。そこで、角幡と荻田は、彼らと同じ道程を同じように歩くことで、彼らの残した謎に迫ろうとしたのだ。

アグルーカというのはイヌイットの言葉で「大股で歩く男」を意味する。フランクリン隊が行方不明になった後、探索をした人々が、イヌイットからアグルーカと呼ばれた白人の話をいくつも聞き取った。それがフランクリン隊の生き残リであったと思われるところから、角幡らは、アグルーカの行方を追って冒険に出たのだ。

「探検家、36歳の憂鬱」に何度も書かれていた、人はなぜ冒険をするのかという問いに対する答えがこの本の中には書かれている。例えば、こんな風に。

目の前に広がっているのは、地球が作り出した生のままの自然だった。私たちはそこに人間の住む場所から二十四日かかってやって来て、そこから出ていくのにも同じくらいの日数を必要とするのだろう。私たちがそこにいることを知っている人間は、この世に一人も存在しなかった。私にはそれが素晴らしいことのように思えた。だからこそ私たちは目の前の風景と直結し、重なりあい、溶け込むことができていた。人間と接触した過去と、接触する未来が、時間的にも距離的にも遠く離れすぎていて、現在の自分からは想像もできないという、まさにそのことによってもたらされる隔絶感の中で私たちの旅は続けられていたのだ。もしかしたら自由とはそういうものなのかもしれなかった。
(中略)
地図がない世界を旅していた人たちを私は純粋に尊敬する。地図がなければ、その先の地形の状態がわからず、先の見通しが立たない。大きな川に行く手を阻まれるかもしれないし、知られざる湾がそこに立ちはだかっているかもしれない。それは今という時間が未来から分断された世界を旅するということに他ならないのだ。土地が未踏であるということは、彼らの隔絶感をさらに高め、旅を不安なものにしていた。しかしだからこそ、一層魅力的なものに変えていたともいえる。
だから私は思うのだ。アグルーカと呼ばれた男が本当にいたのなら、彼の目に映った光景は、私たちが見ているものよりも、はるかに美しいものだったにちがいないと。

冒険というのは、退屈なものだと彼は書いていた。実際、冒険の日常は、疲労と飢えの間で、ただひたすら寒さに耐えて歩き続けるだけのものだった。それでも、彼らは何度でも冒険に出る。その場に行かなければ、それを体験しなければ絶対に手にはいらないものがあるからだ。

馬鹿だよなあ、と思う。同時に、ものすごい贅沢だなあ、とも思う。同じ時代を生きているというのに、こんなにも違う人生がある。生きるってすごいことだ、と思う。

(引用は「アグルーカの行方」角幡唯介 より)

2013/1/8