出世と恋愛

出世と恋愛

5 斎藤美奈子 講談社

少女小説を読みなおすことの面白さを教えてくれた斎藤美奈子だが、今度は「文学は大人になってから読むほうが面白い」ことを教えてくれたのがこの本。取り上げたのは夏目漱石「三四郎」、森鴎外「青年」、田山花袋「田舎教師」、武者小路実篤「友情」、島崎藤村「桜の実の熟する時」、細井脇和喜蔵「奴隷」、徳富蘆花「不如帰」、尾崎紅葉「金色夜叉」、伊藤佐千夫「野菊の墓」、有島武郎「或る女」、菊池寛「真珠夫人」、宮本百合子「伸子」、山本有三「路傍の石」などなど。

確かに読んだことがある本ばかりなのだが、ほとんど覚えていないのが情けない。中学生頃に教師に勧められて、分かりもしないのに読んで読んだ気になっていただけなのだと改めてわかる。中三の担任がなぜか武者小路「友情」推しが強くて、ホームルームの時間に朗読までさせられたのを覚えているが、なぜ、あんなに読ませたがったのだろう。今考えたら単なる失恋小説じゃん、と思ってしまう私。

近代日本の青春小説はみんな同じだ、と斎藤美奈子は最初に喝破する。
1主人公は地方から上京してきた青年である。
2彼は都会的な女性に魅了される。
3しかし彼は何もできずに、結局ふられる。

とはいえ、時に恋が成就するケースもある。ところが、こちらも同じパターンになる。
1主人公には相思相愛の人がいる。
2しかし二人の仲は何らかの理由でこじれる。
3そして彼女は若くして死ぬ。

言われてみれば、そうだ。例としてあげられた高名な小説はすべて見事なまでにこのパターンに分類される。つまり、作家たちは恋愛や大人の女を真正面から描く力がなかったのではないか、と暗にこの本は示している。だよなー。登場人物は驚くほど相手と向き合い対峙することを放棄し、逃げ回る。ふられると恨みに思ったり嫉妬したりはするが、成就すると殺すしかなくなる。恋も、相手と深くかかわりあう中から生まれるというよりは、遠くから眺めて理想化したり、妄想的に気持ちを押し付ける。相手の言葉に耳を傾けたり、実際の心情、立場を想像したり理解しようとはしていない。斎藤美奈子はその分析の中で、時として、主人公の代わりに、その時、女はどう思っていたかを考察する。実に、男たちは何もわかっていないのだ。一方では、女たちは心情を言語化して男に投げつけることを放棄しているようにも見える。さりげなく、それとなく意思表示はするのだが。はっきりした自己主張は、はしたないこと、あってはならない事だったのかもしれない。

といってもこれは現代にも言えることであって、昨日読んだ「もっと悪い妻」でだって、登場する男たちは女の訴えを聞き流してヘッドホンで音楽を聴いたり「疲れてるんだ」と寝てしまったりする。女たちは諦めて、本当の気持ちを言語化することをやめてしまう。あらまあ、ずっと同じなのね・・・。

めんどくせ、と思ってしまう私。まあ、めんどくさいのが青春であり、文学であるのかも知らんが。

最近、90歳の母の思い出話などを延々と聞かされることが多いのだが、同じようなことを言ってるなあとふと思う。わがままで自分のことしか考えない父にいかにひどい目にあわされたか、しかし、晩年は悔い改めたように優しくなったからよかった、という物語。母が自分の望みを「それとなく」言っても伝わらない。父は父で自分の都合だけですべてを決定し、行動する。トラブルが起きれば、父は逃げる、見ないふりをする。母は、自分でできることをし、すべては父のせいだと恨みだけをため込んでいく。だが、それらすべては時が経てば美しい物語のように語られる。これって、真正面から向き合わない人間関係そのものじゃないか。近代文学も、恋愛小説も、私の両親も、みんな同じだあ!ああ、なんだかなあ・・・。