和解のために

2021年7月24日

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          「和解のために 朴裕河 平凡社

高野秀行がブログで、「日韓問題に関した本を読むと、常に誰かを罵倒しているのに、この本は誰も罵倒していない」「火中の栗を拾って、自分は大やけどしながら、その栗を冷まして、日本人と韓国人の双方に差し出している風情である」と評していた。それで、読む気になった。

上野千鶴子はこの本の解説の中で、この本が扱う主題についてこんなふうに書いている。

どれも触れれば火傷をするような危ない主題ばかりだ。どんな主張をしても必ず激烈な反対意見が登場し、どんな立場にもそれを非難する勢力があらわれる。これらの主題について語る者を無傷ではおかない点で、言論人にとっては遠巻きにして距離を置くのがいちばん安全なふるまいだと考えられるそれらの争点に、彼女は徒手空拳でつきすすんでいく。とぎすまされた知性と感性だけを手がかりに。

私はこの本の感想を書こうとして、既に怖気づく自分を知っている。触れれば火傷すると、こんなちっぽけなブログの書きてでさえ逡巡するようなものが、そこにはある。

高野氏の指摘は正しかった。この本は、極めて冷静に、出来る限り公正に、ていねいに書かれている。星野智幸氏は以下のようにそれを分析している。

日本と韓国の対立を扱った本書で重きが置かれているのは、事実の認定ではない。どちらがより事実に即しているかを調べ、どちらがより正しいか、を判定するのではない。事実だとされることが本当に事実かどうか、人一倍、繊細に確認しながらも、朴裕河さんがこだわるのは、「なぜそうなったか」である。その点が抜け落ちているがゆえに、日韓の対立は「時間と空間と主体を変え」て繰り返されているのだし、何よりも、その対立をもたらした日本の植民地支配と戦争が、「時間と空間と主体を変え」て反復されつつあることに、朴裕河さんは虚しさと危惧を隠さない。
 本書の「なぜ」の追及は、幾層ものレベルにも及ぶ。まずは、起こった事実について、なぜ、起こったのか。それから、日韓の対立する人たちが、それらの事実を、なぜ自分たちの都合のいいように加工するのか。そして、なぜ対立し続けようとするのか。
 この追求のために朴裕河さんは、徹底して双方の言い分を聞く。朴さんは何よりも聞く人であり、読む人である。予断を持って決めつけたり拒んだりせず、虚心坦懐にそれぞれの主張を受け止める。

この説明に、私は、おお、と思った。
そうなのだ。大事なのは、事実だけなのか?と私はいつも思う。ひどい事件が起きた。こんな被害があった。なんてひどい奴らなんだろう。と悪の存在をどこかに集中させ、それを叩き潰すことに、私はあまり興味が無い。私が知りたいのは、いつも「なぜ?」なのだ。凶悪犯罪が起きたとき、犯人を憎み、死刑にしろ!と叫ぶよりは、なぜ、その人がそれをしてしまったのか?を私は知りたくなる。それと同じではないか・・・。

驚くべきは、この本は、韓国で出版されたものであるということだ。それを、日本語に翻訳してあるのであって、本来は韓国人に向けて書かれている。大丈夫か、韓国でこんな本を出して?と率直に思う。でありながら、日本で出しても、ものすごく批判を浴びるであろう、というか浴びてるだろうし。この人は、まさに日韓の間でどれだけ孤独なのだろうと思うと、その勇気に感動さえしてしまう。

さて、この本を読んで、私の中で日韓問題がクリアになったかというと、決してそんなことはない、むしろ、問題の根深さと、一筋縄ではいかない難しさに唸りこんでしまっただけだ。情けないが、それが正直な感想ではある。

2013/2/28