慣れろ、おちょくれ、踏み外せ

慣れろ、おちょくれ、踏み外せ

2024年1月15日

3 能町みね子 森山至貴 朝日出版社

対談本なので軽い気持ちで読み始めたのだが、かなりてこずった。自分の無知さ加減に改めて気づいたのだ。同性愛、ゲイ、性同一障害、LGBTなどという言葉をよくわからずに曖昧のままにしていたということに。この本は、男性から女性になった経歴のある能町みね子と、大学でクィア・スタディーズを教えている森山至貴による対談である。「クィア」という言葉自体を私は知らなかったのだが、それは、LGBTを包含するだけでなく、そのどれにも含まれない性のあり方を指す言葉である。そして、本来はかなり侮蔑的な言葉である。日本語で言う「オカマ」や「変態」に近いようなニュアンスもある、ということも含めて説明がなされている。

そもそもLGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字なので「あなたはLGBTですか?」というのはものすごく変な質問である。ということにすら、私は気が付いていなかった。ましてやそのLGBTのどれにも属さない性のあり方・・クィアについて何の認識もなかった、ということに、読み始めて数ページで気づいた。そこからは、もう、知らないこと、気が付かなかったことの連続。こんな書き方がいいのかどうかはわからないが、きわめて興味深く、珍しく、新しく、かつ、共感する部分も多々ある本であった。

人間は男と女の二種類じゃなくて、LGBTにQもプラスされる。そればかりか、最初は男だと信じて生きてきて、結婚もして、子供もできて40歳、50歳にもなってから、自分は実は違うんじゃないか、と思い始めた人だって結構いたりする。つまり、性は決定的で不動のものですらなく、不安定で流動的なものでもある。種々さまざまな性のあり方が存在するという指摘が私には驚きであった。

能町自身も、自分が何ものであるかわからずに生きてきて、とりあえずトランスジェンダーであると「自分で決めて」それに従って性を適合させるために手術も受けたのではあるが、それにしたって本当にそうであるのかどうかはあいまいな部分もあるし、そもそも自分の感じていることも環境に規定されたり影響されたりしている部分もあるし‥と正直に語っている。あなたはこのタイプね、と簡単に型にはめられるようなものとして性があるわけではない・・・のだ。

私は○○ですと迷いなく名乗れる人たちからこぼれてしまった人たちすべてをまとめて「クィア」と呼ぶのがしっくりくる、という話を森山はしている。「自分はゲイだと思うんだけど、いわゆるゲイとはどこか違うように思うんだよね」みたいな。それを受けて能町が「誰もが誰かにとっての『その他』の人たちである」あるいは「誰もが何らかの普通にとっての『その他』である」というのを分かっていこうね、という旗印として「クィア」という言葉を説明していた。そこから話は「普通」の怖さへと流れていくのだが、このあたりは非常に共感できる。私も「普通」の殺傷能力の強さには辟易しているので、なるほど、となると私だってクィアの一員になれるじゃないか、と思ったりもする。

マイノリティとマジョリティの話もされていた。マジョリティの特権というのは自動ドアのようなもので、特権のある人はドアが自動的に開くのでそこに実はドアがあるということにすら気が付かない、という。そこを通れるのが当たり前の人にとって、そこにドアがあるということは問題だとは全く感じ取れないものである、という例えはとても分かりやすかった。

今現在、世間では某お笑い芸人の性的暴力が話題となっている。お笑い界のジェンダー観は非常に古臭く、ホモソーシャルな世界である。が、そこを突き崩そうという動きもある、と能町が2019年M-1グランプリの予選でヒコロヒーとみなみかわのコンビがやったネタを紹介していて、面白かった。

みなみかわがヒコロヒーの容姿をいじったことに対抗して、これから男芸人みたいな女芸人をやってやる、とヒコロヒーが言う。そして、会っていきなり股間を握り、サイズを聞く。嫌がるみなみかわに「男捨ててへんのか」となじり、女芸人が男芸人にされるようなセクハラを続ける。耐え切れずにみなみかわが泣くと「男芸人はすぐに泣くからな」と責める。それがちゃんと面白い、と能町は言う。

見たかったな、そのネタ。それが審査員受けするかどうかはわからないが、そういうネタだってあればいいと思う。だって実際に女芸人はそういう扱いを乗り越えてきているのだしね。

いろんな性のあり方があってもいい、それに慣れようよ、という提言がある。そこで「小児性愛はどうなるんだ」という問題が登場する。小児性愛だって心の中では何を思ったっていい、という基本はある。人は、心の中でなら、嫌いな人間を殺す自由だってある。ただ、それを実行しなければいいのだ。小児性愛の問題は、相手の自由意思による同意が絶対に成立しないところにある。たとえ合意の上だといったところで、相手が小児である以上、それは本当の意味での同意ではないので許されることはない。それは、心の中で殺人をすることと、実際にやってしまうことの違いと同じである。だから、小児性愛の自由は、カウンセリングや欲望をコントロールするピアサポートとつなげていくという形でしか実現されるべきではない。

例えばトランスジェンダーの人間が手術をせずに性を変えることへの抵抗として、トイレやお風呂の問題が取り上げられるが、自分の身体に違和感のある人間が、人に見せつけるように公共の場に入っていくこと言うこと自体がありえない。また、犯罪性を帯びた行動と、性自認の問題は全く別のことであるのにごっちゃにされているという指摘がなされている。結婚詐欺があるから結婚制度はやめましょうとは言わないじゃないか、という指摘は正しい。犯罪は犯罪として取り締まればいいのであって、それとトランスジェンダーの問題を一緒に語るべきではないのだ。

…という具合に、この本で学んだこと、知ったことを延々と書き綴ってしまいそうになるのだが。つまりは、私は何も知らなかった、考えていなかったのだ。それに気づけたことは、きっと私自身の視野を広げたり、私が私を知ることにもつながるのだと思う。私は私で、これを読みながら、自分が性について言葉にすることがとても苦手であるとわかった。私は、そういう人間である、ということに慣れて認めてそういう私で何とかやっていく。みんな、そうやってどこか人と違うことを抱え、それに慣れて、認めて生きていくものなのだ。