母からの解放

母からの解放

2021年7月24日

84

「母からの解放 娘たちの声は届くか」信田さよ子 集英社

「母・娘・祖母が共存するために」をもっとわかりやすくしたような内容。具体的なケースをもとに解説が行われている。タイトルには、娘たちが母から解放されて自分らしさを取り戻し、これまでよりずっと楽に生きられるようにという願いだけでなく、多くの女性達が「母になる」「母である」重荷から開放されるようにとの願いも込められているという。

「アダルトチルドレン」という言葉が世に認められだした頃、「親のせいにするな」という批判も多かった。アダルトチルドレンは、そもそもがアルコール依存症の親を持つ子に付けられた名称ではあったが、この本では「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」と定義されている。この生き辛さは、「全て自分が悪い、私の責任である」と思いこむことでそこから逃げ出せずにいる部分によるところが大きい。もしかしたら、この辛さは親との関係性に起因するのではないか、と気づくところから新たな道が開けるのだとしたら、それは「親に責任を押し付ける」とはまた違う意味合いがある。ということは、おそらく当時よりは今現在、社会的にも理解される様になってきているのかもしれない。

ところが、そうなってきた昨今、トレンドはむしろ「毒親」である。幼児の虐待死のニュースなどの影響もあり、「毒親」という言葉が一人歩きを始めている。結果、母親たちは「自分は毒親になるのではないか」「毒親と見られてしまうのではないか」という恐れに取り憑かれ始めている。それに対して本書は以下のようにいう。

あくまで、娘たちにとってだけ、母親が「重い」のです。母親のいう愛情が「毒」になるのです。それも、その毒の多くは他人には全く気づかれないように、母と娘の間に限って効力を発揮するようにつくり出されるのです。

「シズコさん」を書いた佐野洋子の没後、その夫であった谷川俊太郎と息子であった広瀬玄が、佐野洋子と確執のあった実母のことを評して「ただの良いおばあちゃんだったのに、何をあんなにこだわるんだろうと思っていた」みたいなことを言い合っているのを読んで、愕然としたのを覚えている。つまり、佐野洋子の実母の毒は、佐野洋子にしか効力を持たず、ごく身近にいた夫にも息子にも、ことほどさように、わからないものであった、ということなのである。

ということを踏まえた上で、母と娘の関係性を具体的事例を持ってこの本は論じている。それは特殊な事例であると考える人もいるかも知れないが、ごく普通のおばちゃんである、同年代の、あるいは似たような立場にいる多くの女性の知り合いを持つ私にとっては、実にありふれた、どこにでもある事例なのである。

娘のことは誰よりも私が知っている、と自負する母親。夫との関係性も、電話やメールで常に指示を出さねば納得しない母親。毎日の行動を、全て母親に報告し、承認を得ないと行動できない娘。DVの父に我慢し、苦労して自分を育ててくれた母のために、常に彼女の理想を実現する者でなければならないと努力し続ける娘。結婚に際し、出産に際し、そして、介護に際し、ふと疑問を持ち、気づき、戸惑い、動けなくなっている娘。そういう娘たちは、どこにでもいるし、また、逆に支配側に回っている母親も、どこにでもいる。

本書には、よしながふみの「愛すべき娘たち」の中の「母というのは要するに一人の不完全な女の事なんだ」という言葉が引用されている。まさしく、そのとおり。たかが子供一人生んだ途端に聖母となり、全てを受け入れ、暖かく美しい母性に溢れる人間になどなれっこない。にもかかわらず、そうあれ、そうであるのが当然である、とされるジレンマ。それこそが、母を追い込み、娘を追い込む原因であるのかもしれない。

最後にお伝えしたいのは、母親とは孤独なものであるということです。自分の体の一部だった胎児を産み、そして三〇年以上経てば、全く別の人間として娘を扱わなければならないのです。もともと他人だった夫とのあいだの孤独に耐えるより、それは遥かに難しいでしょう。
 本書で提案したかったのは、それでも娘を別の人間として扱うこと、その孤独に耐えることです。最後まで自分を裏切らずに看取ってくれる、そんな存在として娘に期待することはやめましょう。

        (引用はすべて「母からの解放」信田さよ子 より)

と、これを読んで、そうか、そうだったのか!と考える母がどれだけいるのか、どこにいるのか、と思ったりもする。もちろん、いるかもしれないけれど。部分的には、そうやって自己解決していくべき問題でありながら、でも、その根底にはやっぱり社会構造というか、男女のあり方そのものに起因するところが大きいんだよなあ、と改めて気づく本でもあった。

2019/8/22