母・娘・祖母が共存するために

母・娘・祖母が共存するために

2021年7月24日

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「母・娘・祖母が共存するために」信田さよ子 朝日新聞出版

筆者は2008年に「母が重くてたまらない」というベストセラーを出している。が、私は読んでいない。ほぼ同時期に出された斎藤環の「母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか」は読んでいる。それとまた同時期に出されたのが佐野洋子の「シズコさん」である。この時期を筆者は母と娘を主題とする日本の言質の流れの第三期と捉えている。ざっと書くと、第一期はウーマンリブ、フェミニスト主導期、第二期はアダルトチルドレンブーム、そして第四期として「母がしんどい」「ポイズンママ 母小川真由美との40年戦争」が挙げられている。

確かに、女性の生きづらさを、母親との関係性で捉えるという視点は、「母が重くてたまらない」辺りから急激に脚光を浴びた。それは、それ以前のアダルトチルドレンブームにより、「それは私のせいではなく、親のせいである」という前提があったからこそ受け入れられたものでもあったのだろう。当時、筆者のところに作品についての取材に来たはずの女性記者が、自らの母との関係性を語りだし、止まらなくなり、涙を流し、感情を溢れさせ、取材にならなくなることが多くあったという。この辺りのリアルさは、私にもよく分かる。記者や編集者というある種、優秀な女性たちであればこそ、そういった母と娘の関係性に縛られている人は多いであろうことが想像される。実際、私も、女性が非常に少ない大学の学部にいて、知り合う同級生の女性たちは皆、どこかでいびつな親子関係を抱えている様子が伺えた。他人様のことばかり言えない私でもあるが。

自分自身の生き辛さについて考えざるを得ない時期は、当然私にもあった。それは母との関係性への検証から始まり、姉の存在を経て、最終的には父という存在に行き当たった。様々な葛藤の果てに、しかしながら大人になったからには、自分の生き方は自分の責任であり、いつまでも親のせいにもしていられないよな、という結論にたどり着き、父も亡くなり、今は静かに振り返る事もできるようになった。(だが、最近、母と会うたびに、父との関係性をおさらいさせられるという事象が起きており、それはそれで結構なインパクトを持ってしまっているのだが、今はその事は置いておこう。)

そんなふうに己を見返す中で、気がつけば私も娘の母ともなっており、ただ、母との関係性の被害者に収まってなどおられず、うっかりすれば、私こそが娘を圧迫する張本人ともなり得るのだ、という気付きと緊張感もあった。母と娘の関係性は、このように常にブーメランとなって自分に戻ってくる問題でもある。そして、もし、娘の生きづらさが母の責任であったとしても、では、その母は、なぜ、そうならねばならなかったのか、彼女はただ一方的に責められるべき存在なのか、という疑問は常に湧く。この本は、そういった部分にまで踏み込んでいる。母が娘に、娘がその娘に、と登場人物が、いったい女性ばかりで完結するとはどういうことだ、という疑問にも答えようとしている。

「ものぐさ精神分析」の岸田秀氏は、自分の母との関係性を見つめることが職業につながったことをことあるごとに書いている。写真家の島尾伸三氏も、母である島尾ミホとの関係性について語っている。また、春日武彦氏の「鬱屈精神科医、占いにすがる」についてもこの本では言及されている。つまりこの問題は、実は女性特有の問題といい切れるものでもないのである。ただ、男性はカウンセリングに来ても、今までの生育歴を問われると、まるで履歴書を読み上げたかのような返答しかできず、件の女性編集者たちのような、堰を切ったような語りに至ることは非常に難しいという。

導入は学術的でとっつきにくいが、読み勧めてみれば非常に読みごたえのある本だったことは間違いない。最後に、印象的だった部分を一箇所、引用したい。これは、私が学生時代に出会った友人たちの何人かを思い出さずにはおられなかった一節である。

 彼女たちは「女としての価値」の無意味さを知ってしまった。結婚という幸せ、女の幸福、女らしさといった言葉は何の幸せも保証しなかった、母たちはそう実感したのである。だから無意味な価値をかなぐり捨てて、いちばん確実な価値、つまりむき出しの競争論理(男と同じ)に身を投じようとした、そう思える。それも同性である娘を身代わりとして。もしそうであるなら、娘には息子より遥かに苛烈な教育虐待が行われただろう。
 殴る蹴るは珍しくなく、中には勉強させようと足に鎖を巻いた母もいた。しかし身体的暴力だけが教育虐待ではない。最も恐ろしいのは、抹殺され、存在を否定されてもいい人間がいるという考え、つまり深い差別意識を植え付けることである。これこそ教育虐待の本質だと思う。
                   (引用は「母・娘・祖母が共存するために」 信田さよ子 より)

2019/8/20