火環

火環

2021年7月24日

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火環 ひのわ 八幡炎炎記 完結編」村田喜代子 平凡社

「八幡炎炎記」の続編である。続きが読みたい、と書いておいたら、一年経ってちゃんと続きが出た。忘れてるといけないので「八幡炎炎記」も借りて読み返してからこちらを読んだ。

縁戚関係にあるたくさんの登場人物がいて、そのうちの一人、ヒナ子は村田さんご自身であると思われる。ヒナ子の届出上の母、実は祖母のサトは「鍋の中」にも出てくるおばあちゃんだろう。ヒナ子の叔母ミツ江の夫、瀬高克己はとんでもない女癖の悪い男だが、嫌いになれない不思議な人間である。誰もが、それぞれに煩悩を抱え、それぞれに生きている。それがとてもリアルだ。そして、よくわかる。生きるってそういうことだよね、と思う。

ヒナ子の叔母ミツ江は、広島の夫の洋裁店で働く瀬高と駆け落ちをして故郷に帰ってきた。その直後、広島はピカにやられる。瀬高はミツ江に助けられたのだが、女癖は止まらない。婦人物を仕立てるために女性顧客の寸法を測りながら、次々に手を出していく。体の内側にそういう炎が燃えていたら、生きていくのは大変だろうなあ、と思う。彼を取り巻く女たちも、それぞれに切なく、勝手で、途方に暮れている。みんなわかる。

ヒナ子の本当の母親、百合子は、ヒナ子を自分の妹として届け出て、別の男と再婚するが、離婚に至る。それを、ヒナ子をわが子として育てているサトは理解できない。

「洋一さんは優しゅうてよか人やけど、物足りん。」
「物足りん!」
サトの濁って薄黄色い眼がパッと見開いた。
物足りないのだと?自分の夫が?菊二と夫婦になって以来サトは一度もそんなことを考えたことがない。チラとも頭をかすめたこともない。そもそも女房にとって、じゅうぶん満足のいく、物足りる夫などがいるだろうか。
 菊二のような定収入のない建具職人で、襖や屏風に山水画を描いて、メジロ獲りとその鳥籠作りが無上の楽しみであるような男を夫にもつサトから見れば、夫という者はもとから女にとって不足の、不十分な、満足のいかない相棒である。
 だがその足りないぶんは夫に求めるより、自分が勝手に補っていくものだと、明治・大正から結婚生活を送っているサトは割り切っていた。              (引用は「火環」村田喜代子 より)

なぜこの部分が私に響いたのだろう。夫に文句をつけず、ひたすら耐える古い女の忍従を、私は好きではないし、認めたいとも思わない。にもかかわらず、この部分に私は胸を打たれる。亡くなった義母を思い出したからかもしれないし、今、病床の父を気遣っている母を思い出したからかもしれない。自分の置かれた環境で、静かにできることを行って、文句も言わず、淡々と生きる歳をとった女性の強さに、はっとさせられ、そして、わかるわかる、わかるよ、と言いたくなるのである。

サトは新藤兼人監督の名作「裸の島」の欺瞞を暴く。水のない島に作物を植える夫婦の映画だ。もらい水であれだけの作物が育てられることはない。農作業の野良着は、あんな薄くてはだけるものではない。死んだ子供を火葬にするときに、あんな生木を使うわけがない。猫は飼うても犬は飼うわけがない。彼女の指摘はリアリズムに満ちており、振動映画に憧れてシナリオライターを目指すヒナ子を打ちのめす。そのリアルさよ、力強さよ。

美しかったり感動的だったり真実をえぐっていたりするのではない、ただただリアルな、ある人々の日常がここには描かれている。それこそが生きることだ、と見せられている。村田さんの凄さは、そこだ。一人ひとりが生きている。やりきれない気持ちも、とりとめない思いも、全部本物だ。

村田喜代子の作品は、全部読みたい、と思う。この人は、あんまり大きく取り上げられることがないけれど、こんなすごい作家はいない、と私は思う。どうかどうか長生きしてください。

2018/9/22