私たちの星で

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2021年7月24日

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「私たちの星で」梨木香歩 諸岡カリーマ・エルサムニー 岩波書店

「椿宿の辺りでに」で煙に巻かれたような気分を味わってしまった梨木香歩だが、この本は読み応えがあった。日本人の母とエジプト人の父を持ち、執筆活動やラジオのアラビア語放送アナウンサー、翻訳などをしながら、大学で教鞭もとっている諸岡カリーマ・エルサムニーとの往復書簡。2016年1月から2017年8月まで「図書」に掲載されたものに加筆修正がくわえられている。

梨木香歩の書簡は、外国生活の長い友人が帰国するたびに本屋で「日本はすごい」という書籍が増えているのを見て驚いている、というエピソードから始まる。錦織選手の快進撃にキャスターが「やっぱり日本人は素晴らしいんだ!」と叫んだのを聞いてあっけにとられ、それから空恐ろしくなった話。

この試合において素晴らしいのは錦織選手個人であって、日本人すべてではない。「同じ日本人として誇りに思う」ならまだわかる。どうしてこう、いとも容易く短絡的に、帰属集団に個人のアイデンティティを丸投げし、とどのつまりは自らの優越欲求を満たす手段にしてしまうのか。なにかことあるごとに「日本人は偉い」と大声で叫ばなくてはいられないほど「日本人」は自信を失い、コンプレックスに打ちひしがれているのか。

     (引用は「私たちの星で」梨木香歩 諸岡カリーマ・エルサムニー より)

これが書かれたのは三年ほど前のことであるが、この状況は変わっていないどころか、さらにひどくなっていると思う。集団に個人のアイデンティティを丸投げする傾向は、さらに強くなり、私はそれに恐怖すら感じる。という導入から、この本に入り込んで行った私である。

書簡の相手のカリーマは、「危険な道」という本を翻訳している。これは、9・11の惨事からまだ7ヶ月しか経っていない時に行われたアルカイダ幹部への単独インタビューの記録である。梨木は、この記録において実行犯や幹部たちの、凄惨なテロの実行犯としての顔だけでなく、「個人としての佇まい」が浮き彫りにされていくことを指摘している。メディアの情報だけではふるい落とされてしまう、個人対個人でなければ見えてこないものがある、と。こうした視点に、私は強く共感する。

カリーマは、日本で幼稚園に通っていたころ、友達の家に行ってたまたまその父親に出会う。「わあ、このうちはお父さんとお母さん、ふたりとも日本人なんだ。それってとっても生きやすそうだわ。」と子供心に思ったそうである。胸に刺さるエピソードだ。

そんなカリーマは、ニューヨーク滞在時、民泊を利用した。宿泊先の家主はアメリカ人の作家で、すぐにカリーマがアラブ人ムスリムだとわかる。それを受けて、家主夫人も自分がユダヤ人だと言明する。イスラエル建国の1948年以降、激しく対立してきたアラブ人とユダヤ人。「でも私たちは仲良くしようね」という立場表明のもと、二人は何度もお茶を飲み、語り合ったという。自然体で姉妹のような関係性を築けたのは、女同士の特権かもしれない、というさらりとした表現の中に、いろいろなものを読み取れた。

アラブ系ムスリムとのハーフ、アラビア語文化と日本の文化の間にいるカリーマと梨木との対話は、私が今まで知らなかったことに満ちていた。とりあえず「危険な道」は読まねば。以前読んだ「ナビラとマララ」のことも、思い出した。あの本も、もっと読まれていい本なのに、と思う。

2019/8/26