結婚の才能

結婚の才能

2021年7月24日

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「結婚の才能」 小倉千加子 朝日新聞出版

うーむ。途中で読むのをやめようかと思っちゃったわ。最後まで読んだのは、パラパラめくっていたら、やっぱり面白い部分も散見されるので。2002年から2003年にかけて連載された「結婚の条件」の続編らしい。私は「結婚の条件」も2006年に読んでいるらしいのだが、あんまり覚えていない。なんとなく記憶にあるのは、母親が、自分の成し得なかった夢を我が子に託すとか、雑誌VERYみたいな結婚が理想で、そんな理想的な結婚ができないのなら、今は結婚しなくてもいい、と女性は思うのだ、とか、そんなことだったような。非婚化、少子化に対する小倉さんなられではの分析がされていたような気がする。

当時は、結婚の「理想」を求めて、「妄想」をいだき、結婚しない人が多かった。だが、今や、世界同時不況で自体は一変する。小倉千加子はこういう。

経済不安と孤独の海に放り出され、未婚者は生きるために結婚するか、生きるために結婚どころでなくなるか、いずれかになった。もう「理想」に生きることはできない。未婚者は「妄想」している時間があれば「資格」のための勉強をしなければならない。(中略)
社会の底が抜けた時には、恋愛の才能と結婚の才能とでは、結婚の才能のほうが重要に決まっている。半永久的に一人の人間と繋がる絆を作り出す能力こそがこんな時代には必要だからである。こんな時代とは現実性と日常性に回帰した時代である。恋愛の才能などあってもロクなことはない。恋愛の才能がある人は、頭の中にある抽象が具体になって現れるのを見るのが嫌なのだ。リアルな自分を直視することが怖いのである。それは虚に生きる能力である。そもそもそういう人は虚業を職業にしている。学生が公務員を志向する時代にはあっても意味のない能力である。

(引用は「結婚の才能」小倉千加子 より)

確かに、時代は変わったなあ、と思う。私の若いころ、専業主婦なんて、と私たちは思っていた。能力を生かし、バリバリと働くのが一番いい、と思っていた。それから、セレブな結婚がカッコイイとされる時代が来た。シロガネーゼとなって、素敵な夫がいて、できのいい子供を有名私立に通わせるのが理想となった。たまに、自分の特技でお教室、じゃないか、サロンを開くのが、更にカッコイイみたいだった。今もそれは理想型なのかもしれないけれど、でも、もっと女性は現実的になった、と思う。できたら、結婚したい、と思う人は前より増えているような気がする。

「女性の序列」という章が、印象に残っている。

 女性にはそのライフ・コースによって序列が決められていると女子学生は言う。
一番低いものから並べてみる。
1地方に住み、高校中退して、でき婚をする
2地方に住み、地元の専門学校か大学に行き、地元の人と結婚をして、共働きをする
3東京の大学を出て、対等婚をして、働き続けるか専業主婦になるかを、子どもができたときに決める
4東京の大学を出て、上昇婚をして仕事を辞め、好きなことを仕事にして、好きな場所(海外とか)に暮らす
生地・学歴・相手の地位・仕事の選択と、4種類のフィルターがあるが、最も恐るべきものは「高校中退・できちゃった婚」という人生である。何もクリアしていない。
女性の地位は、つきあう相手のクルマの車体の高さと比例しているのである。

(引用は「結婚の才能」小倉千加子 より)

なんだか身も蓋もない話だ。現実世界で、こんな序列を感じたことは、実はあまりない。ところが、一歩、ネットの世界に入ると、実はこのような序列が世界を支配しているらしい、と感じるようになる。いわゆる主婦サイトと言われる場所では、この序列のどこに自分を位置づけるか躍起になっている主婦が大勢いるのに出会う。そして、上の序列を羨み、下の序列を憐れむ図式を見るのだ。

小倉先生は、女子学生をウォッチングして、この序列を書いたのであろうが、たぶん主婦サイトに入り込んでも、同じような事実に到達したのではないか、と私は思う。ということは、やっぱり、これはひとつの現実なのだろう。

しかし、だから?とも私は思ってしまう。そんな序列の分析をした所で、それが、個々の幸福に、どう関わっていくのだ?と。そもそもクルマを持たない、単なるなんちゃって専業主婦の私は、カーストのどこに位置するのだろう。どこにいたって、ま、いいじゃん、と思ってしまうのは、私が幸福だからなのか?そして、私は結婚の才能があったということなのか?

と、考えて、いきなりどーでも良くなってしまう私なのである。

2011/10/14