職業としての小説家

2021年7月24日

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「職業としての小説家」村上春樹 スイッチ・パブリッシング

 

小説を書くということ、それを職業とする小説家になるということについて、個人的な体験と意見をまとめた本。というかエッセイである。
 
村上春樹のエッセイは大好きだ。彼の本来の仕事である小説は、実は苦手なのだが、それは私個人の特性によるものなのではないかと最近、気がついた。それはさておき、彼の書く文章がなぜこれほどに心地よくわかりやすいのかはこの本を読むとわかる。それは、文章に対する誠実さ、強い確信から来る、と私は思う。
 
ものすごく簡単な言葉で言えば、彼は彼自身に基づいていて、彼自身を信じていて、責任をもっていて、それ以上でもそれ以下でもない自分自身そのものを確信している、というか確信すべく日々努力している。その確かさが、読み手にストレートに伝わるのだ。
 
小説家はたくさんの本を読むこと、よく観察すること、ただし評価は急がないことだ、と彼はいう。何かを評価することは、その必要に迫られてからであり、まずはありのままをよく観察することが大事だという。そこに私は共感する。(ただし、これは私が文章からそう受け取っただけであって、この本には、そんな表現で書かれていたわけではない。主旨として、私がそう読み取っただけである。)
 
これは正しいのか、これは普通なのか、これは合っているのか。あらゆる物事を評価し、○か×かを決めたくなるのは、結局のところ、自分が正しくて普通で「合っている」と思っていたいからだ。それを確認しないと落ち着かないのは、正しくない自分、普通でない自分、合っていない自分であることを受け入れがたいからだ。だが、人生はそんなに単純ではないし、物事は簡単に価値をはかれるものでもない。そして、正しくも普通でも合ってもいない人生を語るところに、小説がある。
 
デビューして長いこと、村上春樹は文壇の批判にさらされてきた。こんなものを文学だとは思ってほしくないとか、こんなのは小説ですらないとか、安易だとかくだらないとか。そういう批評、批判に対して、彼は、そうかもしれないな、そう見えるかもしれないな、と割合素直に受け止めていた。だが、だとしても、あんまりじゃないか、それはフェアではないんじゃないかという批判に晒されたとき、彼は海外に出て、煩わされない環境の下で書き続けることを選んだ。文壇におもねったり言いなりになったり、あるいは反論したり戦ったりするのではなく。それは経済的にも環境的にもかなり厳しい選択ではあったが、彼が彼で在り続けるために必要な選択であった。
 
賞をとるとか、誰かに評価されるとか、賞賛されるとか、物欲を満たされるとか、そんなことよりも一番大事なのは、自分が自分の願うような、書くということを楽しめるような環境を作り上げることだ。そう彼は考え、それを実践してきた。つまり、彼は自分がどうあるべきか、どうありたいかを、ぶれることなく自分自身で決定し続けてきた。書く仕事を編集者の依頼に応じて行うのではなく、書きたいものを書きたい時に書くというやり方を、注意深く、時にはかなり無理をしながらも作り上げてきたのも、そのためである。
 
外的な評価に身を晒さずに、左右されずに、自分自身で在り続ける。簡単なようで、こんなに難しいことはない。それを淡々とやり続けてきた人の揺るぎなさが、書くことへの誠実さとなってにじみ出ている。と私は思う。
 
村上春樹と河合隼雄先生との関わりはどこかで読んだことがある。村上春樹はほとんど夢を見ないそうだが、それを評して河合先生は「そうでしょうなあ、あなたのなさっていることから考えて、夢は見る必要が無いかもしれませんね」みたいなこと(あくまでも私の受け取った内容として)を言っていらしたのを覚えている。この二人の友情というか、信頼関係に私は感じ入っていたのだが、実は村上氏は河合先生の著作をほとんど読んだことがないという。小説家として、心理を分析するという作業に触れることはあまり有益ではない、という判断があったそうだが、つまり、彼らはその仕事を通してではなく、あくまでも人と人としてかわす会話や関り合いの中から互いへの信頼と尊敬を深めてきたのだ。初めて会った日の河合先生の目つきへの村上氏の描写が、それを思わせて興味深かった。
 
最後に、本題とはあまり関係ないのだが、どうしても引用したい部分を紹介して終わりにする。本当に、この本の本来の主旨からは外れるのだが、ここは引用したい、と私は思ったので、お読みいただきたい。
 
たとえば二〇一一年三月の、福島の原子力発電所事故ですが、その報道を追っていると、「これは根本的には、日本の社会システムそのものによってもたらされた必然的災害(人災)なんじゃないか」という暗澹とした思いにとらわれることになります。おそらくみなさんもおおむね同じような思いを抱いておられるのではないでしょうか。
 原子力発電所事故のために、数万の人々が住み慣れた故郷を追われ、そこに帰るめどさえ立たないという立場に追い込まれています。本当に胸の痛むことです。そのような状況をもたらしたものは、直接的に見れば、通常の想定を超えた自然災害であり、いくつか重なった不運な偶然です。しかしこのような致命的な悲劇の段階にまで押し進められたのは、僕が思うに現行システムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生み出すひずみのためです。システム内における責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力を失った悲しき効率性です。
 「経済効率が良い」というだけで、ほとんどその一点だけで、原子力発電が国策として有無を言わせず押し進められ、そこに潜在するリスクが(あるいは実際にいろんなかたちでちょくちょくと現実化してきたリスクが)意図的に人目から隠蔽されてきた。要するにそのつけが今回我々にまわってきたわけです。そのような社会システムの根幹にまで染み込んだ「行け行け」的な体質に光を当て、問題点を明らかにし、根本から修正していかない限り、同じような悲劇がまたどこかで引き起こされるのではないでしょうか。
 
        (引用は「職業としての小説家」学校について  より)
 

2016/9/11