親の介護、はじまりました

2021年7月24日

23

「親の介護、はじまりました 上・下」堀田あきお&かよ ぶんか社

 

堀田あきお&かよは「旅行人」というバックパッカー雑誌に連載を持っていたので知っていた。若い頃は夫婦で世界中を旅して回っていたらしい。「旅行人」も廃刊となり、しばらくお見かけしていなかったと思ったら、こんな本を出していたのか。夫が借りてきて初めて知った。妻であるかよさんのお母さんの介護の漫画である。
 
かよさんの母、トシ子さんが家の中で転んで大腿骨を骨折した。もともと骨の弱いトシ子さんは難しい手術を乗り切ってなんとかちょこちょことは歩けるようになる。が、四年後、また同じ場所を骨折して、今度はほぼ歩行困難となる。
 
問題はかよさんの父、トシ子さんの夫である。自分のことしか考えられない彼は、車椅子で生活するしかないトシ子さんのための家のリフォームを断固として拒否する。介護保険などで補助金も出るから負担はきわめて少なく済むのに、俺が建てた大事な家を触らせない、工事がうるさいのが嫌だなどと言って許さない。多くの人の説得を受けてリフォームを受け入れたかに見せて、なんと自分で壁のあちこちにわけの分からないドアノブや、やかんの取っ手を取り付け、リフォーム完成、といい切る。それらは結局何の役にも立たない。
 
昔から自分勝手ですぐに怒鳴り散らすこの父が嫌いで、かよさんは高校卒業とともに家を出ている。弟も同じである。トシ子さんはそんな夫に耐えて今まで生きてきた。それでも良い子達に恵まれて幸せだと彼女はいい、かよさんはそんな母を大事に介護したい、という。とは言え仕事の場は東京にあり、堀田夫婦はことあるごとに二時間半の距離を車で行き来することになる。
 
トシ子さんの世話を一切しない父親との同居生活は困難を極める。更に、ちょっとしたことに腹を立てた父親はトシ子さんの頼みの綱である杖をへし折ってしまう。トシ子さんはそこで離婚を決意し、かよさんもそれに大賛成する。が、結局は知らない人に囲まれる施設の生活は嫌だとトシ子さんが言い出し、離婚は思いとどまってしまう。ただ、へし折られた杖は夫への怒りを忘れないために捨てずに持っているという。
 
異動がままならず、デイサービスやショートステイ以外ではろくな食生活も送れないトシ子さんは、徐々に認知症の症状も出てくる。が、それはまだらであり、しっかりしているときはしっかりしている。栄養不良で入院もするが、父親は全く反省しないどころかボケやがって、と怒りを見せるばかりである。
 
介護の現実とはこんなものかもしれない、と思う。トシ子さんの場合、配偶者が最も大きな問題になっている。こんな頑固爺を抱えての介護を「みんな同じ」では片付けてほしくない、とかよさんはコラムで語っている。それはたしかにそうだ。介護は、一つ一つ違っている。抱える問題もそれぞれに全く違う。だが、広い目で見ると、それらは結局のところ、いままでなんとかごまかしてきたけれど根本からの解決をはかれなかったこと、直面するのを避けてきたことがすべて表面化し、隠し仰せなくなった問題である、という意味では同じであるように思える。
 
かよさんは自分が父親から逃れ、母を一人で父のもとに残してしまったことに後ろめたさを持っている。かよさんが父に殴られても母は止めなかったことを言い訳にしていたが、それは母も怖かったからだ、と今なら思えると書いている。いま、母を介護することでそのわだかまりを少しずつ片付けている、とも。
 
これはある意味よくある家庭の問題である。父親のドメスティックバイオレンスと、それを止めない母親の典型である。母は夫と決定的に対決することを避け、子どもたちは家を出ることでそこから逃れる。ひどい夫に耐える妻と横暴に振る舞う夫は共依存関係に陥っている。
 
と冷静に分析することはできるが、読んでいて暗澹としてくる。トシ子さんはもっと早くに離婚すればよかった。夫を突き放すことで、トシ子さんは自分自身を取り戻せるし、夫は自分の過ちに気づく機会を得る。そんな過酷な状況に子どもを置いて解決しようとしなかった母親に対してし、かよさんは後ろめたさをもつ必要はない。たぶん、「正解」はそこにある。だが、それができないのが人間でもある。その問題と真正面から対決し、解決に向けて勇気をもてる人だけが生きているわけではないのだ。
 
私の父は要介護3の判定を受けている。要支援2から半年で一気に進んでしまった。認知症が進む中で、彼の中で未解決であった問題、いままで取り繕ってきた問題がむき出しになっていった。心の奥底にあった悲しみや苦しみや不安が表面に噴出し、日々口をついて出てくる。本当はもっと若い内、せめて40歳50歳あたりでその問題と向き合うべきだった。その本質は何なのか、どう捉え、どう消化すればいいのかを深く掘り下げて考え、自分なりの納得を導き出していれば、いまの事態は変わっただろう。だが、もうおそすぎる。たとえその場で心が軽くなるようなことを言って励ましたところで、父はそれを数分後には忘れてしまう。心の底にくっきりとついた傷をいまから治すことはできない。
 
若い頃にごまかして心の奥底にしまいこんだつもりだった人生の問題が、長生きをしたせいで解決不能の形となって噴出する。この本に描かれている現実も、父の姿と同じである。
 
かよさんは、親の介護って自分のためにしているのかもしれない、と最後に書いている。私は、日々わからなくなっていく父を見ながら、いまここにある問題は、いま解決しよう、ごまかすのをよそう、いま対峙し、いま消化していこう、とつくづくと自分に言い聞かせている。父は、身をもって年をとるという現実を見せてくれる。それを受け取り、年をとるということに対する覚悟を決めて準備をする機会を与えられたという意味で、父の介護はまさしく私のためとなっている。
 
それにしても、あきおさんは、じつに誠実に親切に親身になってトシ子さんを心配している。私の夫も私の愚痴を辛抱強く聞いて解決法を考え、助けてくれている。良きパートナーの存在は大きな助けである。かよさんは父親には恵まれなかったが、配偶者には恵まれた。それは本当に良いことだった。
 
これからでもいいから、トシ子さんは法的な保護を受けてきちんと離婚すればいいのではないかと思いもする。私の父よりは、まだ解決可能なこともあるのではないかと。それもまた、他人事だからこそ言えることなのだろうけれども。

2017/5/12