解縛

2021年7月24日

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「解縛 しんどい親から自由になる」小島慶子 新潮社

なんか気の強そうなフリーアナウンサー。というのがこの人の印象であった。「わたしの神様」を読んで、なるほどね、と思った。支配的な母親に育てられて、承認欲求だけが肥大化している自分に気づき、そこから抜けだそうともがいている・・・そんな背景が見えた。

この本は、そんな自分の半生を正直すぎるほど、率直すぎるほどの言葉で語っている。「しんどい親」とあるが、姉との関係性もふくめて、「しんどい家庭」というのが正しいだろう。それにしても、こんなに晒してしまって、まだご顕在の両親や姉は大丈夫なのだろうか。

エリートと結婚し、出来のいい子を産んでその子と自分を同一化するのに夢中な母。仕事人間だが、思ったほど出世できなかったことに鬱屈している父。歳の離れた妹に母の愛を奪われたと感じ、時として鉄拳を振るうことでうっぷんを晴らす姉。母から特別の愛情を注がれていると思い込み、それに応えるだけが自分の生きる道だと信じていた本人。姉からも、父からも、殴られて鼓膜を破ったことがあり、15歳からは摂食障害となる。学校ではいじめられたことも、いじめたこともある。憧れのアナウンサーにはなったが、母から連日のダメ出しのFAXと、トラブルがあれば、誰があなたをいじめたのかと問い詰められる日々。マッチョなテレビの世界に違和感を感じ、結婚して子どもを生んだことをきっかけに不安障害を起こす。

ああ、たいへんだ。人並み以上の美貌を持ち、それなりに賢く、人にうらやまれる職業についてなお、彼女は縛られ続けていたのだ。

以前、「検索ちゃん」という番組で伊集院光と小島慶子の仲が悪いと太田光が指摘したことがある。そんなことない、と二人は言い合う。ただ、いけ好かないトークをするといっただけだ、と伊集院はいう。

この二人は実はちょっと似ている。どちらも成長の過程で家庭に対し、何らかの傷を背負っている。伊集院は、それを自分に向ける。自分がいかに情けない少年であったか、ダメな子であったか、を語る。小島慶子は、それを家族に向ける。母が、姉が、父がどんなであったかを語る。どちらも傷を負っていて、大人になった今、昇華させようとしているところは同じだが、方向性がちがっている。だからこそ、反発しあうものがあるのだろう。

小島慶子は生真面目である。

立場次第で売り出し方が変わるということは女子アナに限らず、女社会にはままあることで、若さ至上主義だった女がさすがに限界を思い知ると、知性重視派や母性重視派に宗旨替えをすることがあります。子どものいる女を所帯臭いと馬鹿にしていた女が、自分が母親になった途端に子どものいない女を軽んじたりするのを見ると、いやなものです。いつも自分の居場所が一番幸せなのだと喧伝しないではいられないようにも見えます。(中略)
 選びとるということは、選ばなかった選択肢の数だけ損をしているような気にもなるものです。自分の選択が失敗だったとは絶対に言いたくない。だから、違う選択をした女を否定したくなるのです。私が選ばなかった道は、価値の無い道だ。私の選んだ道こそが、正解なのだと。
                
ここにあるのは、強烈な承認欲求である。人からどう見られるか、人と比べてどうであるか、が価値基準として置かれている。が、それは違うのではないかとも同時に彼女は思っている。

女の仕事も男の育児も、何が正解かを決めるのではなくて、自分にあったやり方で生活できるのがいいという極当たり前のことを言うのが、どうしてこんなに難しいんだろう。あなたと違うやり方の人が認められるということは、あなたが否定されることではないのに。

その思考はこんなふうに広がっていく。

人を貶めるのは、自分だけが損をしているという思い込みからです。(中略)自分だけが割を食っていると思うと相手が憎くなる。そういう思いをする人が少なくなるように、制度が選択肢をたくさん用意することが世間の空気を買えるんじゃないかなと期待する一方で、もしかして自分は不当にひどい目に遭っていると考える方が、人は安定するのかもしれないとも思う。
                (引用は「解縛」小島慶子 より)

ワイドショーで叩かれるママタレやシングルマザーたちは、視聴者が、うまくいかないなにもかもを誰かのせいにすることによって、すぐ隣りにいるかもしれない本当に自分を追い詰めている人の顔を見ないで済むための生け贄なのかもしれない、と彼女は指摘する。その容赦無い厳しさは、率直な本音なのだろう。だが、その言葉は、その一方で「それに気付いている私」と「無自覚なあなた」の違いを見せつけるという構図も作り上げる。それは、伊集院光が、ダメだった自分を笑いのめすことで、同じようにダメな聴視者と同じ場所にたち、それでも笑って生きている姿を自虐的に見せ続けるのと対象的な方向性である。まじめに取っ組み合うか、おちゃらかして笑って、開き直るか。私の好みは、どっちかって言うと、笑っちゃうほうなのである。不真面目で、ごめんね。

小島慶子は、二人の子供と夫の支えによって不安障害から脱し、しんどい親からある程度脱することが出来たようだ。この本を書けたのは、だからなのだろう。また、これを書くことでさらに心の整理がついただろう。同じように親の呪縛にとらわれている人にとっては、これを読むことが何かの助けになるかもしれない。

が、まだまだしんどいよなあ、と読み終えて思う。例え親から脱したとしても、この強い承認欲求は、結局のところ彼女の根本に住み着いている。もちろん、それはフリーアナウンサーという仕事にはむしろ良い方向に働くものかもしれない。そんな自分をそのまま引き受けて、上手に活かしてやっていけたらいいよね。誰にだって厄介な欲望なり欲求は心の奥底に潜んでいて、それをうまいこと飼いならしながら生きていくしかないのだから。だとしても、茨の道だろうなあ。小島慶子、がんばれ、わたしもがんばろう、と最後に思ったのだった。

2016/4/6