謎の毒親

謎の毒親

2021年7月24日

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「謎の毒親 相談小説」姫野カオルコ 新潮社

「毒親」という名詞は、世の中にはどの程度、浸透した言葉だろう。子育て中、あるいは子育てが終了しつつある主婦が集うSNSや掲示板などでは完全に定着した概念のように見受けられるが、世間的には「何、それ?」の人もまだまだいるというところだろうか。

毒親とは「子供に対する暴力虐待や保護責任放棄ではなく、むしろ、一見は問題のない立派な親なのに、子供には毒作用になる言動をする親のこと」である。よくしつけられた立派な子供が、実は支配的な親に抑圧されて自己表現、自己判断ができずに育っていて、大人になっても親に依存しなければ生きていけなかったり、自己同一性を阻害されて生きにくさに苦しんだりする・・・のは、もはや実にありふれたケースでしかなかったりする。

この物語は、大人になった主人公が、子ども時代の自分の親の謎の言動について、ある人達へ、いまさらながらに相談し、それがなぜだったのかを答えてもらうという形式をとっている。その謎の言動は、彼女の両親は毒親だったというところから分析されていかざるを得なくなるのだが、彼女にとっては、「毒」という言葉は強すぎるし、自分は普通の家庭に育ってそれなりに大事に育てられたのだという感覚が揺るがずにあるということもまた、事実である。

逆にいえば、毒親とはそういうものだろうとも思う。人は自分の家庭でしか育たないのであって、他者からみたらいかに理不尽で不合理な事があったとしても、それが日常であり、繰り返す日々である以上、家庭とはそういうものであり、親とはそういうものである。各家庭には、その家庭にしかない謎があり、秘密があり、それは外の人間には理解不能のものだったりもする。多かれ少なかれ、家庭とはそういうものである。

この本は「スクラップ・アンド・ビルド」同様、私にとってはタイムリーな本だった。私も、老いた親と対峙しながら、我が家にしかない謎、我が家にしかない秘密を、今頃になって紐解くという作業を現在進行形で行っている。というか、かなり前からいろいろなことに疑問を持って考えたり調べたりしていたことが、遂に核心に届いたという感触がある。それというのも、親が老いたが故に、今まで決して口に出さなかった、心の奥底にしまいこんでいた秘密の言葉をぽろぽろと口からこぼすという出来事に時として出会うようになったからである。他者にとってはどうでもいいことが、私にとっては衝撃以外の何物でもないこともあったし、そんな事実が・・・と胸を突かれることもあった。

この本は、老いて亡くなってしまった両親の謎に迫っている。外側から見れば、たしかに毒親である。よくぞそこから抜けだしたものだと思わずにはいられない。最後に「全て事実にもとづいています」と書いてあるのを読んで、ああ、やっぱりそうだったのか・・・と思わずにはいられなかった。逆に言えば、この状況は、フィクションとして書き出すにはあまりにも突飛でありすぎるものばかりからだ。

ところで私は、私も外側から見てどうなのかは分からないが、両親が毒親だったとは思っておらず、でありながら、この本の中に出てくる、いかにも毒親的状況の幾つかには覚えがあり、共感するものがある。その家庭の風習なり姿勢なり、何らかのあり方には、子供の心を踏みにじるものが確かにある。それぞれに形や色合いは違えども、だ。

一体この本を読んで共感したり、ああ・・・と胸を突かれる人はどのくらいいるのだろうか、と私はそれが知りたくもなる。ネット上の感想を少し検索してみると、とても興味深く、あるいは共感を持って読んだ人もいれば、あからさまに不快感を表したり、こんなこと、小説にするようなことか?と呆れ果てている人もいる。その歴然とした差は、どこから来るのか。読者の人生上の経験の差からではないだろうか。

どんな親でも親は親なのだから、そんなふうに悪口を言ったり切り捨てるのは人としてどうなのだろう、という人に対して、毒親を持った人間にしかわからないのだ、と諦念を持って語る人がいる。その傾向が、そのままこの本の感想にうつしだされているのかもしれない。と言っても、私は別に毒親持ちであるとは思ってはいないのだが。ただ、ある種の重荷を親から課せられたものであるとは思っている。もちろん、だれだってある種の重荷は持たされるものだとも思うが。

と、なんだか堂々巡りの愚痴を書いているような気がするが、ともかく、この本を読んで、なんてむちゃくちゃな話なんだ、と思う人と、ああ、わかるわかる、そうだよね、と思う人の二種類がいるだろう、と私は思うのであって、どっちかって言うとわかっちゃう側に私はいる、とわかったのが、私の得た教訓であった。

2016/8/12