京都ぎらい

京都ぎらい

2021年7月24日

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「京都ぎらい」井上章一 朝日新聞出版

 

筆者は京都市右京区の花園で生まれ、五歳のときに同じ右京区の嵯峨へ引っ越し、そこで育った。長じて京大の建築学科の学生となり、京都の下京の立派な邸宅を調査するに際し、その家の主に
「君、どこの子や」
と問われて嵯峨だと答えた。すると、
「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」
と揶揄を含んだ「いけず」を言われた。
 
その話を、国立民族学博物館顧問にして京都西陣育ちの梅棹忠夫氏にし、
「先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下したはりましたか」
と尋ねると彼はためらいもせず
「そら、そうや。あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな。杉本秀太郎がそんなふうに言うのも、そら、しゃあないで。」
と答えたという。
 
その梅棹忠夫が「桃太郎」を語った声が、日本各地の方言のひとつとして国立民族学博物館に記録されている。それを聞いた中京区新町御池育ちの男は
「京都を西陣のやつが代表してるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」
と言ったという。
 
二十代後半に差し掛かった京都の未婚女性が、年齢のせいでいい縁談が来なくなった、と嘆いているのを聞いた。
「とうとう、山科の男から話があったんや。もう、かんにんしてほしいわ」
山科の何があかんかと問う筆者に彼女は
「そやかて、山科なんかいったら、東山が西のほうにみえてしまうやないの」
と答えたとか。
 
洛中だけが京都であり、嵯峨や山科、宇治なんぞは京都ではない、田舎もんは黙っとれ、という京都中華思想の闇を筆者は恨みを込めてこの本で暴いている。
 
私は転勤で、京都市に隣接する洛外のとある市に、二年半ほど住んでいたことがある。その町の人たちは子どもには素晴らしく優しく親切にしてくれた。が、よそ者には実に厳しかった。一見、親切そうに振る舞ってはくれるが、生活の中で「お前はよそ者である。田舎者である。」というはっきりとした一線を引かれる。冷たい「いけず」に出会うことも日々あった。幼かった子どもも、転勤族しかいない会社に務める夫も全く感じない京都の「差別」に私だけがさらされた。京都は大好きだが、住むにはつらい街である、とつくづく感じたものである。
 
そういえば「被差別の食卓」にもアメリカ南部のホスピタリティについて論及があって、笑ってしまった。南部では、客人に対して極上の笑顔を向ける。そこは、アメリカでもっとも差別意識の強い地域なのだ。これをサウザンホスピタリティという。京都にも同じようなところがある。
 
とはいえ。直後にこの本を読んだせいかもしれないが、差別だ、差別だ、と糾弾しても「被差別の食卓」に比べれば、深刻の度合いがまるで違う。違いすぎる。
 
たしかに京都の洛中の人間の意識はそういうものがあるだろうし、はるか昔からの根は深いだろう。が、千葉県の自宅から東京の私立高校に通っていた私は教室で田舎の千葉県民と蔑まれ、埼玉県民と慰めあったものだ。何故か神奈川県民は、自分たちのほうが上だと思っていて不思議だった。都民連中の間でも、深川や森下よりも港区高輪がいばっていた。どこにでもあるよな、そういうのって、と思うのである。
 
人間の差別意識って根深いものがある。バカバカしいと思いつつ、自分の中にも同じものがあることも知っている。京都だけをムキになって言ってもなあ。とはいえ、京都、住みにくかったことは間違いない。生粋の京都人は、この本を読んで何を思うのだろうか。
 
(引用は「京都ぎらい」井上章一 より)

2016/3/6