銘のある茶道具(逸翁美術館)

銘のある茶道具(逸翁美術館)

2021年7月24日

私はお茶の素養がない。まったくない。
東京のとある友人は、若い頃から長年にわたってお茶を習っている人だ。
娘の演奏会で、大阪に行くんだけど・・と連絡があったとき、私は「天満天神繁盛亭に行く?なんば花月に行く?」とはしゃいだ。
そうしたら、奥ゆかしく、もしよければなんだけれど、と逸翁美術館見学を申し出られた。

逸翁美術館は、阪急グループの創始者小林一三氏のコレクションを展示した小さな美術館だ。
以前に、日本画の屏風絵を見に訪れたことがある。
今回は「銘のある茶道具」を展示しているという。
茶碗なんて見て、面白いのかね、と不審に思いつつ、行ってみた。

展示室で、友人が小声で解説を加えようとしてくれたのだが、係員に「私語はお慎みください」と言われてしまう。
おお、そうなのか。
そういえば、人は数人いるが、展示室内は静寂に包まれている。
ではでは、勝手に自己流で楽しませていただくほかあるまい。

茶碗がずらっと並んでいる。
たまに、掛け軸と茶杓がある。
そういえば、夫の実家を処分したときに、たくさん茶碗が出てきたっけ。
私も夫も義姉も、その価値が全く分からず、二束三文で処分してしまった。
もしかして、ここに並ぶような名器もあったのだろうか・・・と、俗人は妄執を抱くのである。
「へうげもの」を読んだくせに、今ひとつ、茶碗の魅力がわからない私である。

が。
「家光公」という茶碗の解説を読んでいて、おや、と思った。
「家光公「」は、実は三つの違う茶碗を継ぎ合わせて作られているのだそうだ。
言われて見れば、たしかに継ぎ跡があるし、それぞれに微妙に模様も違っている。
だというのに、なんか落ち着いているのだ。
ちゃんとひとつの茶碗として調和して、しっかりそこに存在しているのだ。
よく合わせたなあ・・・と感心する。
と、ともに、なぜ、この茶碗が「家光公」なのか、と思うのである。
逸翁(小林一三の雅号)が、この銘をつけたそうだ。
徳川家康、秀忠のあとを継いで、三代目の家光が、幕府のあり方を確立させた。
それは、三つの異なるものを見事に継ぎ合わせた集大成でもあったわけだ。
なるほど、逸翁さん、すごいじゃん、と思うのである。

「阿闍梨」という茶入は、表面がカピカピになって、ぼろぼろ崩れ落ちそうにも見える。
でも、どっしりして、かっこいいのだ。
表面、古くてきったないぜ、と思うのに、全体はちょっといびつで、それがいかにも意味ありげで、深い。
「阿闍梨」ってえらいお坊さんのことだっけ。
そういやあ、そうだよなあ、と、やっぱり感心するのだ。

「家光公」とはまた違う、継ぎはぎの志野焼の茶碗があった。こちらは家光公みたいに優雅じゃなくて、もっとがたがたしていて、ごつくて、縁が傾いでしまったりしていて、でも、それが味があって、面白い。
これは「与三郎」というのだ。
「切られ与三郎」じゃん、と私は笑ってしまう。
なんて愛嬌のある銘なんだ。

「大やぶれ」という名の、本当に片面がぱっかりと割れてしまっている手鉢もあった。
割れてるけど、使えないこともないのよね。
割れ具合が、どことなく面白くて、笑えるような形で。

小林一三という人は、面白い人だったのだろうな、と思う。
おちゃめじゃないか。
茶道具に名をつけるなんて風流なことだけれど、これって、道具がお題になった大喜利じゃないか、と私は解した。
だとしたら、面白いぞ、これは。

2011/8/2