鶴見俊輔伝

鶴見俊輔伝

2021年7月24日

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「鶴見俊輔伝」黒川創 新潮社

私は鶴見俊輔の功績については、ほぼ何も知らない。読んだことがあるのは「戦争が遺したもの」「わたしが外人だったころ」程度である。共著だったり児童向けだったり、いずれも彼の本域の仕事ではない。が、そもそも鶴見俊輔は、そのように人や著作や表現されたものに対して、優劣、順位を付ける人ではなかったから、その二作とて、「鶴見俊輔の作品」であると言えるのだろう。

鶴見俊輔は雑誌「思想の科学」の創設者、編集者である。1996年まで発刊されていたから、私はこの雑誌にかろうじて間に合う世代であった。にもかかわらず、なんと一度も読んでいない。「話の特集」や「噂の真相」「本の雑誌」など、欠かさず読んでいたのに、「思想の科学」に手が伸びなかったのは、地味で難しそうで目立たない作りだったからか。今更ながら、一度でいいから目を通すべきであった。

著作も主催する雑誌も読んでいないのに、なぜ鶴見俊輔なのか。それは、彼の人となりに非常に惹きつけられるものがあるからだ。後藤新平の孫、政治家、鶴見祐輔の息子というすばらしく恵まれた家庭に育った彼は、その「家」に反発し、学校へ行かず、中学生にして女給と不純異性交遊に励み、万引きをし、不良少年と成り果てる。母親は学校へ行かない息子の代わりに学校へ通い、息子を打擲してまで家で勉強を教えこみ、父親はあらゆる公私混同を行って次々と高名な学校に彼を送り込む。そして、放校される。ついに、アメリカへ彼は渡る。父の口利きで大学に入学させてもらえるというのを拒み、小学校からやり直させてくれと主張し、ハイスクールを経て、ハーバード大学に入り、見事な成績で卒業する。アメリカでは、鶴見家のお坊ちゃんではない自分でいられたこと、時勢から、実家からの仕送りも滞りがちで、貧乏暮らしを余儀なくされたことが、むしろ彼を縛るものから解き放ってくれたという。それでも、日米開戦に当たり、日本が負けること、大義がないことを知りながらも、負けるときは日本にいるべきだ、という思いから、彼は交換船に乗って日本に帰る。この辺りの流れは、どうにも私の胸にぐっとくるものがある。

実家に対するアンビバレンツ、嫌だと思いながらも、その恩恵からは完全に逃れ得ないこと、そして両親に対する感謝と嫌悪の入り混じった感覚。それらは、結局、彼が死ぬまで続いた。戦後、彼は三度も鬱病に倒れるのだが、その背景には、自らの出自と、それへの抵抗から傷つけ続けた人々への様々な思いがある。

そんな彼だからこそ、どんな人に対しても、対等に接し、尊重するという姿勢が常に貫かれていた。不良だった自分を優しく抱きしめてくれた女給さんたちに対する感謝から、名も知れぬ通りすがりの人から、当時、文化として認められてもいなかった漫画から、場末の漫才師に至るまで、全ては平等であり、対等であるという姿勢が貫かれた。

彼は実行の人でもあった。プラグマティズム哲学が彼の専門であるのだが、「プラグマティズム」て何だ?と調べてみたら「知識が真理かどうかは、生活上の実践に利益があるかないかで決定されるとする。実用主義。」だそうだ。つまり、彼は哲学なり思想なりが原稿用紙の上や活字の中にあるのではなく、現実の行動の中、実践の中にあるという立場をとっていた。だから、反戦デモにでかけ、ベ平連で脱走兵を匿い、家事に熱中し、名のない若者にも会いに行った。実践の人であった。

彼の中には、自分をどうしても許せない固い核のようなものがあって、それが彼を時に鬱病へと追いやった。父母、姉(鶴見和子)への複雑な強い思いは、様々な場面で時に噴出し、意固地なまでに彼を規定した。実家に金銭的に絶対頼らないこと、父と同じ家にいることを拒絶すること。ついに自分を理解せずに、ただ無心に、政治家としての公私混同や裏表の使い分けをためらいもなくやっては自分を愛し続ける父との関係性は、読んでいても非常に苦しいものがある。また、彼は、自分を育てたアメリカに対するアンビバレンツから、どんなに招聘されても、ついにアメリカに再度入国することはなかった。カナダ滞在中、留学時代の恩人に恒例のクリスマス祝いの電話をかけて、そんな近くならうちまで来い、と言われて拒絶。90歳を超える恩人は、仕方なく、国境を超えてカナダまで彼に会いに来たという。

様々な固いルールに囲まれて、彼は生きた。それが彼の潔癖であり、誠実であったのだろう。だが、家族は、とりわけ妻は、そのために相当苦労したのだろうと(この本には書かれていないけれど)思わずにはいられない。奥様はまだご存命とのことだが、ほんとうの鶴見の姿は、この方にお尋ねしないとわからないだろうな、とも思う。でも、そんなことは明らかにしたくないだろうな。

鶴見俊輔の意固地なまでの固い生き方を、私は美しいと感じる。それは時に自分を縛り、周囲を苦しめるものにもなるが、それでも真っ直ぐ生きることである。そこに私は潔さを感じる。晩年の彼は、散り落ちる一枚の葉になって、通り過ぎるこの世の姿を見ているようだ、と笑っていたそうだ。ただの葉っぱになった彼は、それが幸せだったのだろう。

2019/3/7