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「Daddy-Long-Legs」ALICE J.WEBSTER
磯川治一 中村吉太郎 黒田昌司 訳注 南雲堂
近所の図書館で、隔月程度で読書会がある。今回のテーマは「あしながおじさん」であった。子ども時代におそらく子供向け抄訳版を読んだことがあるのと、大人になってから偕成社版と福音館版、講談社版も読んだ。翻訳が違うと物語のテイストが違うのに気がついて、試しに原文で読みたくなって手に取ったのが、本書である。
もともと高校生向きの副読本として使われているのだと思われる。右側が英文で左側が邦訳の対訳本だが、できるだけ英文だけを読み、どうしてもわからないところだけ邦訳を見るようにして時間をかけて読んだ。こんな経験、本当に久しぶりだ。
「あしながおじさん」は100年も昔の物語だ。なのでどうしても登場人物の語り口は古めかしい。当時の女学生言葉と思われる「そんなことはなくってよ」「してくださる?」「お思いになりませんこと?」的な会話にあふれている。ジュディって、孤児院育ちの妄想癖のある元気な女の子のはずなんだが、どうしてもどこかお上品な女学生という感じがしてしまうのは、口調のせいかもしれない。
英文で読むと、英語はとてもカジュアルだし、いわゆる女学生口調もあるのかもしれないけれど、そこまで私の語学力がついていかないこともあって、もっと平易な、日常的な会話に読むことができる。すると、ジュディはもっと活発で、どこかあけすけで、でも、本当に素直で朗らかな少女なのである。幾つもの翻訳を読んだが、英語版のジュデイが一番好きだ、と思ってしまった。
物語の最後の文章を、偕成社版は
「追伸 これは初めて書いたラブレターです。書き方を知ってるなんて、おかしいでしょう!」
本書の対訳では
「追伸 これは私が初めて筆にした愛の頼りです。私が書き方を心得ているなんて、おかしくありません?」
後は手元にないが、
「私が書き方を知ってるなんて不思議だとお思いになりませんこと?」
みたいな訳もあった。ところで、英文は
P.S. This is the first love-letter I ever wrote.Isn`t it funny that I know how?
である。私は脳内で「これは私の初めてのラブレターよ。私が書き方を知ってたなんておかしくない?」程度のラフな会話に変換していた。あるいは、もっと雑にイマドキに「おかしくね?」とやったって別にいいのである。まあ、そこまではしないけどね。ジュディはもっとざっくばらんな子でもいいような気がしてならない私である。
「あしながおじさん」は中流階級夫人、もしくは中流階級に憧れる下層階級労働者階級婦人向けの雑誌に連載された小説であり、もともと子供向けの物語ではなかったという。ジュディの大学生活での衣類や家具やちょっとした雑貨の描写は、雑誌内の憧れの商品カタログ的な側面もあったかもしれないという。そう言われてみると、ジュディの誂えたイブニングドレスや絹の靴下やじゅうたんやカーテンなどの話題が、また違ったものに感じられてくる。
孤児とは、自分が何者であるかを知らず、自分のルーツを持たない根無し草であり、何も持たず、誰からも無償の愛を受けることなく育つ、恐ろしく孤独で苦しく悲しい立場である。だが、様々な物語の中の孤児は、このジュディや、赤毛のアンや、長くつ下のピッピなどのように、どこか自由でのびのびしたあこがれの存在でもある。というか、そうなってしまっている。
本来は孤児は本当に悲惨な境遇である。私たちは、今、周囲に明らかに孤児である存在を知らず、また当時の孤児院のような悲惨な状況も目のあたりにすることがない。だからこそ、物語の表面上の知識から孤児に憧れるのであって、100年前の読者は、少なくとも現代の私達よりは孤児の悲惨さ、辛さを現実のものとして想像できたのではないかと思う。そういった前提があるかないかで、この物語の意味あいは随分と違ってきてしまうのかもしれない。
自分が何者であるかがわからないという深い闇を抱え、たとえ朗らかで元気な手紙を書いていたとしても、実は日々の生活の中では時に深く悩み苦しみ、引け目を感じ、コンプレックスを克服しようともがき続けている少女を、文章の裏側に感じ取ってこそ、「あしながおじさん」という物語の本当のストーリーが読み取れるような気がする。が、それはもう時代的に無理な話になっているのかもしれない。
2016/6/1