46 ブレイディみかこ 文芸春秋
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が思いがけずによく読まれて作者、ブレイディみかこは驚いたそうだ。さらに驚いたのは、その本の中にたった5ページだけ登場する「エンパシー」という言葉が独り歩きし始めたことだったという。その原因の一つは、「エンパシー」は日本語で「共感」という言葉に翻訳されているため、その意味を正しく受け取ることが難しかったからではないかと彼女は指摘している。厄介なことに「エンパシー」とともに「シンパシー」という言葉も同じ「共感」と訳されているからだ。実はその二つは全く違うものである。
英英辞書によると、エンパシーは、他者の感情や経験などを理解する「能力」である。一方、シンパシーは、誰かを可哀想だと思う「感情」、誰かの問題を理解して気にかけていることを「示すこと」、ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す「行為」、同じような意見や関心を持っている人々の間の「友情」や「理解」である。つまり、エンパシーは「能力」なので、身につけるものである。一方、シンパシーは感情や行為や友情、理解など、内側から湧いてくるものだ。シンパシーは、かわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きなのに対し、エンパシーは別にかわいそうと思っていなかったり、逆に、同じ意見や考えを持っていない相手に対して、自分がその人だったらどうするだろうと想像してみせる知的作業ともいえる。
という説明を読んで、おお!目からうろこであった。同情心としてのシンパシーは周囲を見渡しても結構見受けるものであるけれど、実は感情移入や自己投影的なエンパシーは、あまり見かけないような気もする。それは非常に難しい作業であり、でありながら、とても必要なことでもあるように思える。エンパシーなしには、社会の多様性も、相互の尊重も、実現が難しいのではないか。
このような解説は、実はこの本の前段であって、そこからその「エンパシー」の様々な分類や、闇の部分、必要なのか、むしろ害悪なのか、それをよきものとするためにどうとらえればいいか・・・という考察が長きにわたって繰り広げられる。思った以上に、深く、難解な部分の多い本ではあったが、なにか目を見開かされる思いがあったことも確かである。できれば、もう少し頭脳がはっきりした状態で読み返したいとすら思う。
それにしても、この本に登場するエンパシーの達人、金子文子は実に魅力的な人物であった。彼女を描いた映画「金子文子 何が私をこうさせたか」が今公開されている。うちの近くでも上映してくれないかなあ。見たいぞ。
