女ことばってなんなのかしら?

女ことばってなんなのかしら?

27 平野卿子 河出新書

女ことばについては、以前に「女ことばと日本語」を読んでとても驚いたものだ。本書にも最初の方に書かれていたが、そもそも世間で女ことばだと言われているものは、日本の伝統ではないどころか、為政者の都合によって推奨され広まったものでしかない。ここで問題なのは、女ことばとは「日本女性は丁寧で控えめで上品だという〈女らしさ〉と結び付けられたものだということである。

「じゃねえよ、てめえ」「すっとぼけんな」「よくも私の大事な時間、無駄にしてくれたな」
これはバカリズム脚本「ブラッシュアップ」のなかのセリフだが、すべていわゆる男言葉である。劇作家、永井愛は「ら抜きの殺意」で、女ことばに命令形はないと言っている。「やめろ!」は命令形だが「やめて!」はお願いである。相手を従わせるには弱い。こういった指摘に、私は驚く。今まで意識したことがなかったが、なるほど、そのとおりだ。痴漢に遭ったとき「やめて」じゃだめだ。「やめろ!!何してるんだお前は!!!」じゃないと。

そもそもが、日本語は命令形をあまり使わない言葉である。「来い」というよりは「来てください」、あるいはくだけた表現でも「来てくれ」程度になる。また、主語を明らかにしないことが多い、誰がやったか言いたがらない。遠回しな拒絶表現が多く、はっきりものを言わない。受動態が多用される。自分がやったわけじゃない、と言いたい。罵倒語や悪態も少ない。日本語とは、実はそもそもが極めて女性的な言語なのである。必ず主語を入れ、他動詞と能動文を好み、因果関係を明確に示す西洋語とは全く違う。

日本語の男と女に関する言葉は釣り合いが取れていない。「男の中の男」とは言うが「女の中の女」とは言わない。「男が立つ」「男になる」「男をあげる」「男だろ!」とはいうが、女は「女々しい」だの「女の腐ったよう」だの「女だてらに」などだ。「私を女にしてください」なんて言ったら全然違う意味にされちゃう。「少年」と「少女」は対語ではない、という指摘にもはっとさせられる。「少男」じゃなくて「少年」。男を表現するときには背後に「性を超えた人間性」があるのに、女の場合は「性」から逃れられない。これは「王女」と「王子」も同じである。

そういえば森元首相が「わきまえる」発言で物議をかもしたが、ジョージワシントン大学の研究では「男性は相手が男性の時より女性の時のほうが33%も話を遮る率が高くなる」という研究結果を発表しているそうだ。女性は強くてはいけない、のがこの国の基本である。強くてもいいのは「芯」だけ。なぜ芯は強くていいかと言うと、普段は優しく控えめな女性が、いざというときだけ、それまで見せたことのない「芯」の強さを発揮するから。それってものすごく都合がいいものね。

そういえば、「あしながおじさん」が大好きな私は、いろいろな人の翻訳を読む内に、原文ではいったいどうなっているのかが気になって中学生向けの原書「Daddy-Long-Legs」を読んだことがある。そこで私は驚いた。ジュディは、私が思っていたよりもずっと活発で、どこかあけすけで、でも、本当に素直で朗らかな少女なのだ。翻訳版では「そんなことはなくってよ」「してくださる?」「お思いになりませんこと?」なんて言っているジュディが、原書を通して私のなかで「そんなことない。」「してもらえないかな?」「思わないの?」程度に堂々と話している。うーむ。女ことばが、ジュディを変えてしまっている。

だが、大事なのは、女ことばを使うかどうかではなく、しっかり自己主張できるかどうかだ、と作者は最後に念を押す。女ことばは、人を傷つけないような物言いをすることがある。争いを避けることもある程度できるかもしれない。ただ、まだるっこしい言い回しを選ぶことで、主張する力を弱めたり、ことさらにへりくだったり、相手に察してもらおうとしないことが大切だ。

なぜジェンダー格差はなくならないのか。それを、言葉を通して考察した本であった。いくつも新しい気付きがあった。