旅の手帖

旅の手帖

2021年7月24日

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「旅の手帖〈ふるさとの栞〉」宮本常一 八坂書房

 

宮本常一は、日本中をフィールド・ワークして訪ね歩いた民俗学者である。この本を読むと、宮本がどんなに細かく丁寧に日本各地を歩き、人々の話に耳を傾け、普通の人の暮らしぶりや習わしといったものを調べつくしてきたかがよく分かる。ここに収められているのは、彼が各種雑誌や新聞などに寄稿した比較的短い文章ばかりである。簡潔な文章の中から、彼の温かい中にも鋭い眼差しが伝わってくる。
 
転勤族の子として生まれ、転勤族の夫と結婚して、日本各地を転々としながらここまで生きてきた私には故郷と呼べる場所がない。この本に描かれている人々の暮らしは、生まれてから死ぬまでをほぼ同じ場所で過ごし、そここそが自分の生きる場所だと信じていた人たちのものばかりである。少し前までは、人はそうやって生きてきた。いや、今だって多くの人はそうやっているのか。
 
老いてきた父に、若いころの話を聞かされることが多い。農村出身の父は、東京の大学に入るため上京して、あらゆるものに現金が必要であることに愕然としたという。故郷では、食べるものは畑や田圃にあったし、隣近所と分け合いもした。水は井戸から汲めばよかったし、薪は拾えばよかった。都会では、水を飲めば水道代がかかり、茶碗一杯のご飯さえ金がなければ食べられぬという現実に、父は驚いたという。そして、その現実を田舎の親たちはついに理解できず、なぜそんなに金が必要なのかと父を贅沢者扱いし、なじったという。
 
話には聞いても、それが実感を伴って理解できていなかった私だが、宮本常一の本を読んでいると、そうだよなあ、とわかる気がする。金融経済などというものは、ほんの少し前までは、一部の人間のものでしかなかった。農村、漁村では作物さえあれば、それなりに暮らしていけたのであった。それをしっかりと認識しなければ、歴史認識を間違える。歴史を記してきたのは、学のある、身分のある者が中心であったから、私たちが学ぶ歴史もそういう一部の上位層に位置する者の視線になりがちである。だが、殆どの人は庶民である。宮本常一は、そうした見落とされがちな庶民の生活をすくい取り、調べ、記録し続けた人であった。
 
 農村は決してよいところではない。因習にみち、非民主的で、多くの不合理にみちている、と指導者たちは説いた。それはその通りであったかも知れぬ。だがさきにも説いたようにそれは長い年月の間に人間が考えつづけてきた生き方であった。世の中がかわってきたのであるから、それにつれて村もかわってゆかなければならないのは当然であるが、そのことのために、全てを断絶ということばで人間不信の関係をつくりあげていくことが進歩というものではなかったはずである。(中略)
 
 自我を発見し、自己を確立してゆくことは、人間として重要なことである。しかし、それにもまして相互が信頼しあうことが安心して住める世の中をつくっていくもとになるものであることに気付かねばならぬ。どうすれば相互信頼できるような世界がつくれるかといえば、過去あるいて来た道をふりかえってみればおのずとわかってくるのではなかろうか。といって決して過去へかえれというのではない。過去を見ることによって何を大切にしなければならないかということがおのずからわかってくるように思う。
 しかも日本農村の民衆は自分たちの村や村を中心とした世界を守り、これを子孫にうけついでもらうことに疑念を持たなかった。しかし、今やほとんどの人が自信を失っている。その自信喪失が何によったものであるかをこれから解明していかねばならないであろうが、自信喪失と同時にふるさとといわれる概念も崩壊をはじめている。それは同時に日本文化の崩壊をも意味するものではないかと思う。(引用は「旅の手帖」宮本常一より)
 
私は、こんな文章を読むと、なんだか泣きたくなる。私には、すでにふるさとと呼べるような場所はなく、守り受け継がせていくものもない。それは自由ではあるけれど、どこか空虚である。けれど、私は一生、その空虚と共に生きるしか無い、としみじみと思い返すのだ。

2015/2/27