日本の覚醒のために

日本の覚醒のために

2021年7月24日

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日本の覚醒のために 内田樹講演集」晶文社 内田樹

内田樹の講演集である。内田樹の講演は面白い。それは、彼の大学の最終講義で確認済みである。あ、これちょっと自慢ね。うっふっふ。彼の本は何冊も読んでいるが、やっぱり講演は面白い。あんまり準備はしないで喋りだして、どこに行き着くか、自分でもわからないんだそうである。だから面白い、と本人が言っているのには笑うが。

講演は6つ、それにおまけがひとつ。題目は以下の通り。

資本主義末期の国民国家のかたち
これからの時代に僧侶やお寺が担うべき役割とは
伊丹十三と「戦後精神」
ことばの教育
私が白川静先生から学んだこと
憲法と戦争 ー 日本はどこに向かうのか
(おまけ)SELDs KANSAI京都集会でのスピーチ

見てわかるようにテーマは多岐に及んでいる。これだけタイプの違うことを長々喋れるというのはすごいなあとまず単純に感心する。素人だから、間違っても責任が生じないから、などとご本人は言われるが、聴き応えのある話である。

面白かったのは伊丹十三論かな。伊丹十三を、人は映画監督として捉えがちだが、彼はどちらかと言うと一人の思想家というか、ものの見方を提示する人であった、と私は思っている。内田氏が言われる通り、私も「ヨーロッパ退屈日記」を振り返し読んだひとりである。英語に堪能な日本人役者としてヨーロッパで映画を撮影した際の体験記と単なるブランド紹介と捉えられる向きもあるこの本が、いかに深く偉大であるかを改めて思う。内田氏は、伊丹十三の評価を、改めて内田流に行う。それがあっているかどうかは問題でない。伊丹十三という人間を、このように捉えることも出来る、という発見が、私には大きく新鮮であった。

それから、ことばの教育の件。内田氏の前に文科省のお役人が演壇で話したのだが、それを楽屋で聞いて、俺はこの人とまるで逆のことを話すのだが大丈夫だろうか、とスタッフに聞いたら、「ご自分の話が終わったらすぐにお帰りになるから大丈夫ですよ」と言われたという。で、内田センセイは「聞いてたらごめんなさいね」と言いながら、それはもう、何度も言いながら、文科省を、その役人の話したことを、ばっさばっさと切り捨て、持論を展開するのである。その小気味よさよ、面白さよ。

講演が面白いのは、それが聴衆に向かって話されるからである。芝居のテレビ中継が一気に面白くなくなるのと同じように、講演も、演者の発する言葉が、聞く人一人ひとりに向かっているからこそ、生き生きとしたものになる。逆に、相手に届けようという気持ちのない言葉は、聞いていてすぐに分かる。薄っぺらっで、耳に聞こえても、心に届かないからだ。文科省の役人と、内田センセイのことばの違いは歴然であったろうと確信する。耳障りの良い、いかにも何か意義深いことを言っていそうな言葉をどんなに並べ連ねても、心のこもらない言葉は、何の力も持たない。国語教育の基本は、そこから始まる。はずである。

それにしても、同じように社会を語っても、どちらもちゃんと心には到達するのだが、森達也の言葉は絶望的でやさぐれているのに、内田センセイの言葉はちょっと元気が出るのはなぜだろうね、と夫に聞いたら、そりゃ内田センセイは、自分を認めてくれて、話を聞きたがる弟子が周囲にいて、武術をやったり、聖地巡礼もしながら楽しく暮らしているからで、森達也はカツカツの中で、あんまり認められもしないで、苦労して生活してるからじゃないの、と言っていた。そうなのか。そうなのかなあ。どちらもいうこともわかるけど、そういうことなのかなあ。私には、まだ、わからん。

2017/8/14