本の栞にぶら下がる

本の栞にぶら下がる

178 斎藤真理子 岩波書店

韓国文学翻訳者による読書エッセイ集。旅のお供本が足りなくなって、夫から借りたのだけど、とても良い本であった。夫が「サワキが喜びそうな本だと思ったよ」ですと。ドンピシャだった。

取り上げられているのは、「チボー家の人々」や永山則夫、いぬいとみこ、林芙美子、郷静子、鶴見俊輔、茨木のり子、漱石に李光洙、森村桂、などなど。あちこちに、私の出会った作者、読んだ本が登場して懐かしく思い出したり、ああ、この人も同じ思いだったのだ、と胸を熱くしたりした。

私は中学時代、図書館に並んでいた黄色い本を、何度も何度も読み返した。「チボー家の人々」。ロジェ・マルタン・デュ・ガールという、なんだか呪文みたいな名前の人が書いた本だった。難しくてよくわからなくて、何度も読み返した。そのうち、「チボー家のジャック」という、その全集の抜粋本みたいなのも見つけて、それも読んだ。

その本のことを、高野文子が「黄色い本」というマンガに描いていて、ああ、この人も同じだったんだわ、と思った。「本の栞にぶら下がる」の作者、斎藤真理子も同じように思ったという。高野さんも齋藤さんも私も、この本について語り合う友達などいなかった。何度も読み返しては、なんだかもやもやした。私はごく普通に学校生活を送っていた。でも、作者が言っているように、「チボー家」のジャックたちの物差しに自分を当ててみると、自分のなにもかもがちっぽけで卑怯なものに見えたりもした。社会を変えたいという熱気や仲間たちとの友愛、そして激しい恋愛。そんなものを何一つ持っていなかった。今読み返してみると、と、筆者は言う。

この指摘はとても鮮烈だった。言われてみればその通りだ。でも、あのころ、私はジャックが男だなんてこれっぽっちも気にならなかった。なぜだろう。そのことも、筆者は書いている。マルタン・デュ・ガールは、十代のいらだちと憧れをよくこんなにみずみずしくかけたなあ、と。ジャックが十代のころ、思い通りにならないこと、疑問ばかり持っていたことをみっしりと書いた灰色のノートが、性と階級と時代と文化を超えるから、世界が何もかも変化した後でも、そのことは変わらない、と。そして、この本の読者は、一度この本と別れるのかもしれない、と。その言葉に、私はひどく納得してしまった。そして、もう一度、「チボー家の人々」を読み返したい、と思わずにはいられなかった。

この本はまた、私の信頼し尊敬する鶴見俊輔についても書いている。死刑になった永山則夫についても書いている。それらの本を読んだとき、こんな風に、何を感じたかを誰かと話したかった、とつくづく思う。いろいろな本を読んで筆者が考えたことが、同じ本を読んで私が考えたことと重なりあったり、少しずつ違っていたりしている。それらをじっくり掘り下げて語り合えたら、どんなに楽しいだろう、どんなに新しいものが見えるだろう。

そんな風に思える本であった。本を読むことは、読んだ経験を語り合うことで、より一層豊かなものになる。それを、この本はやってのけているのだと思う。