聖地巡礼リターンズ

聖地巡礼リターンズ

2021年7月24日

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「聖地巡礼リターンズ 長崎、隠れキリシタンの里へ!」

内田樹×釈徹宗 東京書籍

「聖地巡礼」「聖地巡礼 Rising熊野紀行」に続く第三弾。今度は長崎、京都、大阪とキリシタン、隠れキリシタンの聖地をめぐる。ユダヤ教に詳しい学者と仏僧とプロテスタントの牧師を含む団体が、カソリックのキリシタン、隠れキリシタンの聖地をめぐるというややこしいことになっている。が、あくまでも宗教と歴史への深い敬意に支えられた旅であることは明記したい。

隠れキリシタンについては以前、「みんな彗星を見ていた」を読んだ。あの本には、隠れキリシタンの受けた残虐な仕打ち、残酷な歴史をまるでなかったことのように打ち消して脳天気に世界遺産申請だとはしゃぐ地元への疑問と怒りが込められていた。だが、この本を読むと、人びとは殉教したキリシタンたちの存在、その思いを決して忘れていないこと、それが信者の心の中に今も息づいていることを、そこここで感じ取り、語りあっている。そのどちらが本当なのか。その場所に、実際に行ってみないとわからないということだろうか。

キリシタンは、歴史を学んだものであっても、日本の特殊な地域のごく一部の人たちのことであったかのように思いがちだ。だが、当時の人口比で考えると、現在の日本よりももっと多くの人たちがキリシタン信仰に入っていたという。

大村純忠は、長崎の大きな土地をイエズス会に寄進している。他国が領地を狙ってきた時に、そこが西洋の宗教団体の土地であったほうが、脅かされる心配がないという算段もあったに違いないという。遠くヨーロッパの彼方から、その土地を支配しようと軍隊が押し寄せてくることはまずありえず、それよりも隣の戦国大名が攻め寄せてくることのほうがよほど現実的であった。日本の土地を一大名がヨーロッパ人に寄進してしまう権利があったかどうか・・。その当時はまだ国家という概念も確立していなかったので、そんなやり方も通ったわけで、皆がこぞってそんなやり方を踏襲したら、国家というものが成立しなくなる・・・と言う辺りも、その後のキリシタン弾圧の契機の一つになった、と説明されていて、おお、なるほど、と感心した。

聖地巡礼を追体験しながら、宗教というものの強さを思う。この世界には幾つもの宗教があって、どれもが人の幸福を願うものでありながら、いがみ合い、諍いあっていることを思う。互いの違いを認め合い、経緯を持って相対することの困難さを思う。幾つもの髪がありながら、それを超えられないことを思って考え込むばかりである。

いつか長崎、五島列島を訪ねてみたいと思った。

2016/12/23