身体の言い分

身体の言い分

2021年7月24日

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「身体の言い分」内田樹 池上六朗 毎日新聞社

長年にわたって武道の修行に励んできた内田先生の膝が痛みだした。二人の整形外科医が、これは治らない、武道もやめねばならないと宣言したが、講演に来たことのある隣町の接骨医が「治します」と宣言し、三か月ほどで本当に完治してしまった。直したのは三宅安道氏で、彼の師匠がこの本の対談相手、池上六朗氏である。

神の手を持つ接骨医なんぞの噂はたまに聞くが、それって本当なの?といつも疑ってしまう。
が、ほかならぬウチダ先生のいうことだしなー、と、その件は、保留にしておいて。

ウチダ先生の言うことは、そうだよなー、と思うこともあれば、そりゃあ、あなただからそう思うだけでしょ、と思うこともある。が、全体に、彼の言うことを聞いていると気が楽になるところはある。矢萩多聞くんとはまた、違った意味で。

ただのおばさんの私にも、日々の悩みはある。どうしたらいいのか、踏み迷うこともある。そこへ、割にはまり込む言葉がこの本にはある。

池上 たとえば仲間で遊んでいると一人だけ、必ずいやなことをする人がいるでしょう。会社の会議なんかでも、この人が何か言わなければあとはまとまるのに、っていう(笑)。いません?そういう人。
内田 います。
池上 それは自分が、その仲間になれているのかなれていないのかがわからなくて、不安感があるんですよね。不安をもっている人というのは、他の人がいやがることをするんです。そうやってどこまで許されるだろうかということを無意識に試している。つまり、裏側の交流を図っているんです。

これはよくわかるなー。「不安」というのは大事なキーワードだと私も思う。不安にとらわれると、人は嘘をつくし、攻撃するし。でもって、私はとても不安になりやすい体質だと自覚しているし。

子どもの時にすごく親に愛された人というのは、孤立することが怖くないんですよね。百人中九十九人があっちに行っても、「あ、そうなの。でも、ぼくはこっち」って、平気でこっちに行けちゃう。
 だけど、承認された経験の貧しい人は、他者の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったらほめられるのかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。自分で高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアチーブメントに対してきっとみんなが褒めてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。だって、目標は百点満点であって、それからの減算方式で今の自分の位置を決めているんだから。

それはそのとおりだよね。でも、じゃあ、どうしたらいいのかな、と私はいつも考える。子どもを条件付きで愛しちゃダメだ、って内田先生はすごく言いたいのだろうけれど、結果的に、そうなっちゃっている時、私たちは、自分自身に対してでも、ほかならぬ子どもに対してでも、どうしたらいいのだろう、と思う。無条件で愛すればいいんだろうけれど、もう、減算方式が身についちゃってるんですよ、という人が生き方を変えるのは、とても難しいことだ。そういうことに対する答えまでは書いてくれないのよね。

そんなことは、自分で考えなはれ。
ということだろうか。

基本的に、この人は、「なるようになる」と思っているみたいだしな。なるようになるのかな。

(引用は「身体の言い分」内田樹 池上六朗 より)

2014/7/22