野の道往診 野の花ホスピスだより

野の道往診 野の花ホスピスだより

2021年7月24日

「野の道往診」徳永進 NHK出版 26

「野の花ホスピスだより」徳永進 新潮社27

家族で図書館に行って、帰り道、それぞれに借りた本を見せ合ったら、夫も私も徳永さんの本を借りていた。前に読んだ「詩と死をむすぶもの」がとても良かったからだ。同じ本じゃなくて、良かった。

どちらも、徳永さんが、終末医療を中心として、でも、何でも診ますよ、というスタンスでやっている野の花診療所での日々を描いた本。人が死ぬ本は、基本、好きじゃない私だけれど、たくさんの人が亡くなっていく姿が描かれていても、静かに穏やかな気持で読むことができる。

ホスピスという言葉を知ったのは、二十年以上も前のことだろうか。山崎章郎医師が、「ホスピスで死ぬということ」という素晴らしい本を出されて、私はそれに打たれた。彼の講演に行って、「どうしたらホスピスに入れるでしょう?」と馬鹿な質問をした。まだ、私も家族も、誰も死ぬ予定はなかったけれど、転勤族で、全国を放浪する私には、東京にしかない山崎氏のホスピスに入るのは、到底無理なことだと思えたからだ。いつか来るその日、私はホスピスに入れるだろうか?と、真剣に考えたからだ。山崎氏は、「もしあなたの家族やあなたがそれを必要としたら、病院や行政に働きかけていくことでしょうね」と真摯に応えてくださった。うーん、それは、難しいし大変だ、と、怠け者の私は、その時思った。

二十年以上たって、ホスピスはとても増えた。1990年に五カ所だったのが、2009年には約200ヶ所に増えている。その事を、私は「野の花ホスピスだより」で知った。徳永氏は、そこで、こう書いているのだ。


死への援助者がこんなにも増えていいことじゃないか、と表面的には思える。でも、と疑問が湧いてくる。そこで働き続けている医師、看護師は一体何人くらいなんだろうか、みんな何年間くらい働き続けているのだろう、飽きたりしてないだろうか、と。
とてもおいしいものには、少し高くても誰もが憧れる。でも三食ともそれで、毎日それとなると飽きる。誰もが飽きる。ホスピスという医療現場にも類似の現象が起きている気がする。死に懸命に向かえば向かうほど、心は疲労し、失礼な言い方だけれど死に飽きてくる。朝も昼も夜も死、その死に疲弊する。

引用は「野の花ホスピスだより」より

徳永氏はとても正直で、かつ、どこまでも謙虚だ。私はこの文章にぎょっとし、それから、胸を打たれた。医師というのは、死に対して飽和していくだろう、と素人の私もちょっと想像すればわかる。徳永氏のように、ひとりひとりの患者を尊重し、誠意を以て対し続けている医師ですら、それはそうだろう。また、そうでなければ、心が続かない、とも思う。でありながら、彼は、死に飽きる、ということに立ち止まる。疑問をもつ。そうして、そこから出発しようとする。それは、当たり前に見えて、実はものすごいことなのだ、と私には思える。

「野の道往診」の中に「今、この一日」という文章がある。就学前の子は、小学生になると輝く日が始まると思う、小六は、中学生になってからがスタートだと思う。中学生はいい高校に入ってこそ、充実した青春が始まると思い、高校生はあこがれの大学に入って本当の自分が実現すると思う。卒業する頃になると、良い就職をすることが本当の人生だと思うが、親たちは、結婚して世帯を持って子どもを持ってこそ人生だ、という。子どもが生まれれば、この子が小学生になってこそ、と思い、そのあとはそれが繰り返される。病気になれば、病気が治癒した後が本当の大切な日々だと思い、老いてからは、家に帰ったら、と思いながら、老健施設で過ごしたりする。

がんになる。一つ一つのことが奪われ、失われる。うその日々だと思う。霧が晴れるように、すべての悪夢が去り、晴れ渡った日々がきっと来ると待つ。でも来ない。
「今、この一日」こそが大切で貴重なのだ。子どもにとっても、大人にとっても、老人にも、末期がんの人にとっても、「今この一日」が。
どんな状態に陥っても、「この一日」は奇跡のような日。そこにあるのは、奇跡の紅茶やコーヒーで、奇跡の野花と軌跡の風、奇跡の人たちとの出会い。
そして、奇跡の「今、この一日」。僕たちは、ついそれを、忘れる。

(引用は「野の道往診」より)

2011/5/7