そこにある山 結婚と冒険について

そこにある山 結婚と冒険について

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「極夜行」「漂流」など、ハードな探検をしてはノンフィクションを書く角幡唯介の新作である。彼は、北極圏の極夜の中、GPSを拒絶して、自らの感覚だけを信じて犬橇で旅をするマッチョな探検家ではあるが、その一方で「探検家とペネロペちゃん」などという「俺の子供ってチョーかわいいんだぜっ!」だけを訴える親ばか書籍も出しているので要注意だ。だが、彼の中では、親バカ話も、マッチョな探検も何ら矛盾するものではない。ということが、この本を読むとより明らかになってくる。

なぜ山に登るかというと、「そこに山があるからだ」とエベレスト初登頂を果たしたマロリーは言った。それを本多勝一は前人未到主義という観点から理解した。だが、角幡は、それを「事態に飲み込まれたからだ」と解釈する。事態は、相手あるいは対象との関わりがきっかけで生じる、意図を超えた制御不能の津波のようなものである、と彼は言う。マロリーは、単に彼が世界で最もエベレストに絡め取られてしまった人物だったからこそ、エベレストに登頂した。前人未到だからとかじゃなくて、彼のそれまでの登山の歩みの結果として、逃れられない存在として、エベレストに飲み込まれてしまったのだ、というのだ。

角幡は「極夜行」でも、探検と出産を対比させ、命と死のぎりぎりのせめぎあいの中で生を実感するという経験を女性は出産において実現できるが、男性は探検することでしかそれを実感し得ない、という話をしている。そして、この本では、命がけの探検は、結婚と同じようなもの、あるいは結婚のほうが遥かに大きな冒険である、とまで言っている。いや、大真面目に。

探検家である角幡に「なんで結婚なんてしたんですか」という質問が時としてぶつけられる。非日常に軸足を置く冒険家が、家庭などという日常まみれの場所を志向し、ローンで家を買い、子供まで育てていることへの疑問である。それに対して、彼は、それもまた「事態に飲み込まれた」結果である、と答える。ある日、たまには一緒に飲みましょうや、と言ってきた後輩に、それなら会社のOLさんも連れてきてほしい、と下心で頼んだ彼が、後に妻となる女性とそこで会い、彼の著作を面白かった、と言ってくれるのでうれしくなって何度か飲みに行くうちに付き合うことになり、結婚するとしたらこんな女となんだろうな、と思うに至り、何度かそれをほのめかしたり、あるいは問いただされたりするうちに、気がつけば結婚することになっていた。それは事態に飲み込まれたのであり、逃れ得ない出来事であった、と。と言うと、妻は「あなたが選んだのでしょう??!!」と怒るそうだが(だよねえ・・・)、そうじゃない、と彼は言う。それ以外の道はない、津波のような流れであった、という言い方は、もしかしたら大きく妻との出会いを感謝し評価していることなのかもしれないが、まあ、とにかく、彼は事態に飲み込まれた、ということである。

わからんでもない。結婚なんてものを私もするとは思ってもいなかったのに、気がつけばこいつと結婚するよりほかはあるまい、という事態に陥っていた経験は、確かにある。言われてみれば、あれは、事態に飲み込まれたことであったのかもしれない。絶対に幸せになれるなどという確信があったわけでもなければ、その後待ち受けているだろう運命を思い定めることもなく、ただただ津波に流されたわけであるが、結果、結構いいじゃん、こういう人生、と思えるに至っているから私もまた僥倖であった。

さて、角幡は、結婚により、家や妻子に外堀を埋められるという外的状況としての不自由を得たにもかかわらず、なんと内的感覚としてはむしろ人生が自由になったと感じていると書くのである。外的状況における自由とは、誰に気兼ねすることなく好き勝手にやる、という意味合いであった。それに対して、内的感覚としての自由は、自律的であること、おのれ自身の内在的論理に従って生きられることであるという。

理性や意思といったものを超越した事態に飲み込まれる中で、その時の自分にしか起こり得なかった選択をすることで人生の固有度は高まる。それは理性が事前にイメージしていた生き方とはズレていく。そのズレが累積することでそれぞれの人生は固有度を増し、世間に流布する誰か他の人の言葉ではない、おのれの中に培われた内在的論理で行動できるようになっていく。だから、外的自由が失われたとしても、内的自由は深まっていく・・・と彼は書く。

理屈屋だよな。と読んでいて笑う。笑うが、まあ、わからんでもない、とまたも私は思う。転勤族の夫と結婚して、仕事の自由を失い、子供を育てて実質的な自由も大幅に失い、与えられた環境の中で四苦八苦して生きてきた私ではあるが、この処、自由を満喫しておるのう、とつくづく感じる。人の目を気にすることもなく、誰かにどう言われるだろうと気に病むこともなく、日々を自分のやりたいように過ごしている。まあ、コロナのせいで非常に不自由ではあるが。と、一介の主婦のおばちゃんが探検家と対等に書いてどうする、とは思う。が、角幡は、自身の結婚を、その固有度において北極で長期犬橇漂白旅行をすることとじつは全く等しい価値をもつ、と断言している。そして、その意味が、なんとなく分かる気がする私である。もちろん、私は極夜を犬ぞりで旅したことはない。なのでそれらを対比し、比較することは出来ないが、人生において事態に飲み込まれること、その中でおのれの内在的論理に従って生きるということの自由さは、わからんではないぞ、と何度でも思うのである。

角幡唯介はめんどくさい理屈屋であり、それを読む私もとんでもない屁理屈屋である。というだけのことかもしれない。だが、この本は面白かった。そして、極夜行も、出産も、幼い子供と対峙することも、結婚も、等価値に受け入れる彼の思考論理を、とても自由なものとして受け入れたい、と思ったのである。