〈わたし〉を生きる 女たちの肖像

〈わたし〉を生きる 女たちの肖像

151島崎今日子 紀伊国屋書店

「ジュリーがいた」の島崎今日子である。この人の書くものは安井かずみ森瑤子も読んでいる。一人の人物に取材して書き込む作品は、どれも読みごたえがあり、信頼できる書き手である。

「アエラ」に連載していた「女たちの肖像」の書籍化である。(上野千鶴子だけは「婦人公論」初出。)書籍化されたのが2011年、震災直後である。実際に取材が行われたのはそれよりもさらに以前のことで、だから、内容はかなり古い。古いが、読むと生き生きとした女性たちの姿が立ち上がってくる。

描かれたのは、綾戸智恵、上野千鶴子、宇津木妙子、木皿泉、北原みのり、北村明子、北村道子、澤田知子、長与千種、夏木マリ、野田聖子、萩尾望都、林文子、風神ライカ、本谷有希子、山田詠美。

知っている人も、知らない人もいた。だが、皆、それぞれに懸命に人生を生きていた。女性であることは、どうしても何らかのハードルを人生に与える。男性もそうなのかもしれないが、女性である私には、彼女たちのぶつかるハードルがどれも他人事には思えなくて、一つ一つが具体的に身にしみて迫る。世界チャンピオンになるほど強い女子プロボクサーが、夜の孤独に耐えられなくて、誰かに手を握ってほしくなるのも、容貌に人生が左右されるのがどうしても納得できず、受け入れがたくて、顔を包帯でぐるぐる巻きにして写真を撮ってしまうのも、物分かりのいい大人になることをどこまでも拒否して一人ぼっちになってしまうのも、ぜんぶわかる気がする。

実際の私は平凡なおばさんで、二人の子どもを育て上げただけの何のキャリアもない存在なのだが、それでもなお、彼女たちの日々の奮闘や孤独や、そこで得た喜びは、私自身のものである。日々出会う、何でもない出来事の中に含まれる小さなとげや痛みやひっかかりが、彼女たちの苦闘とどこかで共感しあうのだ。それは、女性作家の書いた作品に、より共鳴する現象と同じだ。この世に存在する、私とは別の女性の出会う問題は、実は私の問題でもある、と私はきっと思うのだ。

ここに描かれた人たちが、今、どうしているのかをちょっとだけネットで調べてみた。頑張っている人もいる。引退した人もいる。そりゃあ、年も取るからね。でも、みんな、前を向いて生きている。だから、私もこの人生を、できるだけ楽しんで前を向いて生きようと思う。女性であることのハンデも、喜びも、全部受容して、今の私を大切に生きようと思う。