あしながおじさん(谷川俊太郎訳)

あしながおじさん(谷川俊太郎訳)

2021年7月24日

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「あしながおじさん」J・ウェブスター 谷川俊太郎訳

理論社 フォア文庫

「あしながおじさん」は何度も読んでいる。福音館の坪井郁美訳、偕成社の恩地美穂子訳、講談社の曽野綾子訳、英語学習用の対訳本などなど。子ども時代には、今となっては誰の翻訳かわからんが、手紙文を物語に改変した抄訳本も読んだ覚えがある。今回は、たまにコメントを下さるTさんが谷川俊太郎の翻訳を読んだ、しかも解説が佐野洋子だった、と教えてくださったので、そりゃ読まなきゃ、と図書館で探してきた。Tさん、ありがとう。

谷川の訳は、極めてラフである。それが私には心地よい。時代的なことを考えれば「そうではなくって?」「ご存知でいらっして?」なんて訳が本来正しいのかもしれないが、現代を生きる者たちにフィットするためには、もう少しくだけてもいいと思う。実際、英語版を読むと、むしろすんなり読めるので驚いたおぼえがある。

佐野洋子の解説が素晴らしかった。これを読むためにこの本はあるとさえ思った。

「あしながおじさん」は子供にとっては羨ましいシンデレラストーリーである。自分もいつかとんでもない金持ちのあしながおじさんにめぐりあいたいと思うのだ。孤児というかわいそうな立場でいながら、耐え忍んだりジメジメしたりしないでいきいきと愉快な主人公は素晴らしい。愉快でロマンチックな楽しい物語だ。

ところが、大人になってもう一度「あしながおじさん」を読むと、泣くのである。佐野洋子は、電車の中で読んでしゃくりあげそうになったという。わかる。本当に、泣けるのだ。私も何度泣きそうになったかしれない。

これはジャービー坊っちゃんの心理小説でもある。可愛いジュディにジャービー坊っちゃんはお金を使って愛を注ぐ。でも、ジュディはどんどん成長し、自立していく。自分でお金も稼いでしまうし、命令にも従わなくなる。ジュディの凛々しさ、真っ直ぐさに比して、ジャービー坊っちゃんはかたなしである。子ども時代は憧れのお金持ちの叔父様だったはずの人が、情けない男に成り下がるのである。

それでもハッピーエンドはやってくる。

「まえにはいつもわたしはうきうきして、のんきでへっちゃらでいられた、だってかけがえのないものなんかなにももってなかったから。それなのにいまはーあなたが自動車にひかれやしないかとか、看板が頭におっこちやしないかとか、うようよしているばいきんをのみこみやしないかとか、そんなことばかり考えるでしょう。私の心の平和は永久にうしなわれた。」
          (引用は「あしながおじさん」フォア文庫版 より)

佐野さんはここで一番たくさん泣いてしまったという。これは愛の真理である。子ども時代は、こんな文章に心を揺さぶられることはなかった。でも、大人になると、こんなにも泣けるのだ。だとしたら、大人になるとは、なんと豊かなことだろう、と私は思う。そんな豊かさを得られるのなら、若さと引き換えにしても別にいい、と思う。

60代になったら、またこの物語を読むのだろうか。また、違うものが見えてくるのだろうか。少し楽しみな私である。

ところで、たったひとつ残念なことがある。「あしながおじさん」の挿絵は、本来ウェブスター自筆のものなのだが、何故かこの本では長新太が描いている。オリジナルの挿絵を髣髴とさせるような素朴な絵ではあるが、それなら最初から本物を使ってほしかった。なぜ、わざわざ長新太を起用したのか。好きな画家ではあるけれど、「あしながおじさん」には必要ないんじゃないだろうか。

2017/6/14