当事者研究

当事者研究

2021年7月24日

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「当事者研究 等身大の〈わたし〉の発見と回復」

熊谷晋一郎 岩波書店

ものすごく時間をかけて読んだ。読んでどこまで理解できたかはわからない。これはいわば論文であり専門書である。専門的な用語が飛び交うので途中からは、調べたり、こういう意味合いだろうと自分なりに想定したり、立ち止まって考え込んだりせねばならなかった。が、とにかく知らなかったことを知り、気がつかなかったことに気がつける本であったことは間違いない。

筆者の熊谷晋一郎の著作「リハビリの夜」を九年前に読んで衝撃を受けたことを覚えている。先日、たまたま本屋で雑誌「ダ・ビンチ」を立ち読みしたら、星野源がその「リハビリの夜」を胸に抱え他写真が載っていたので驚いた。あの本を、源ちゃんが勧めていたのね。星野源、すごいぞ、いいぞ。と思った。

脳性まひの筆者が生まれた頃は、脳性まひは早期発見と濃厚なリハビリによって改善が期待できるものとされていた。そのため筆者は子供時代を痛くて苦痛なリハビリと、無意味ないくつかの手術の中で過ごし、結果、それらは全て無駄であった。障害とは何であるのか、障害の回復とはどんなものであるのか、についての人々の考え方は、当時から比べると大きく変わっている。「わたしの身体が悪いのではない。わたしの身体を受け入れない社会のほうが悪いのだ」という新しいパラダイムが認められるようになったのだ。

障害者の当事者運動では、「なんでも自分でできること」「お金を稼げるようになること」を自立とは考えない。運動における自立概念は、「自己決定をし、その結果について自己責任を負うこと」である。自己決定することが自立であり、実行することは自立にとって必要な条件ではない、と考えたのである。
 また自己決定の原則を徹底するために、支援者は、たとえ善意であっても先回りをせず、障害者の指示に忠実に従う手足に徹するべきだと主張された。それは、施設や仮定の中での、先回りが前提となった介助/非解除関係においては、水を飲むタイミングや、トイレに行くタイミング等について、どうしても介助者の顔色をうかがいながら決めるようになりがちなものだ。そんな中で当事者運動が謳った自己決定の原則は、介助者の都合を優先するのではなく、あくまでも被介助者の意思が優先されるべきである、というゆずれない主張だった。このことは、自立生活運動の「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」というスローガンによく現れている。

上記は本書の第一章からの引用であるが、ここに書かれていることは、単に障害者の当事者運動にとどまらず、例えば、過干渉になりがちな育児の中で、あるいは、自己主張が一切許されないような三世代同居家庭の中の嫁、あるいは(DV傾向のある)夫に支配される妻の立場においても同じことが言える。あるいは、世間の空気に流されて、「自分で考え、選び出す」ことを忘れたすべての人間についてもいえることかもしれない。自分が直面する困難な現実の「当事者=統治者」になることを見失うという意味では、私たち全員に当てはまることが指摘されている、と思わずにはいられなかった。

当事者研究は、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点である浦河べてるの家などの障害者運動と、薬物やアルコールなどの依存症自助グループの二潮流がある。障害者運動がある程度の公開性を保持しているのに対し、依存症グループは、その特性として、匿名性があり、その場で言いっきり、聞きっきり、が前提となっている。であるからこそ、安心して自己を語り、問題を見つめることができる場だからである。が、であるからこそ、その研究は公のものとはならず、研究、進展が難しいものともなる。

といった前提をもとに、実際にASDを例として当事者研究の実践が語られている。これはもう、研究論文の域であるため、そこから先は、どうぞお読みくださいとしか言いようがないのだが、困難ではあっても、新しい発見に満ちた内容であることは、間違いがない。苦労したが、読み切ってよかったと思える本であった。が、人に説明するには、あと五回ほど読み返す必要があるかも。

      (引用はすべて「当事者研究」熊谷晋一郎より)
2020/11/24