91 丸山正樹 東京創元社
「デフ・ヴォイス」第三弾。主人公の荒井尚人はついに結婚、みゆきとの間に子をなす。みゆきの警察勤務を助け、主夫業をこなしながら手話通訳の仕事も続けている。聾者の妊婦の通訳は、はじめは女性でないと‥と忌避され、最後には信頼を得るが…。売れっ子芸能人の聾者や、兄弟に聾者を持つこと、地域独特の手話の存在など、様々なテーマが描かれる。
これも南仏をうろつきながら読んだ本。ニース空港で、フィンエアが第一ターミナル、第二ターミナル、どちらから出るかわからなくて空港スタッフに英語で尋ねてもうまく通じない。何度も「ほえああ、いず、ふぃん、えああ」と尋ね、最後に「ヘルシンキ!」と行先を言うとようやく通じ、それは「フィネアー」と言えばいいのだよ、と流ちょうな発音で教えられた。
荒井の甥、悟志は聾者だが、成績優秀で、普通学校に通っている。手話だけでなく口話も使うし、読話も得意である。口話は、耳の聞こえない子に発音を教え込んで、普通の日本語を発生させる話法である。だが、それは本書にも書かれているように、例えば「みいわあちゃんはあなあんええせえ(美和ちゃんは何年生?)」「にいほおんごおでえいいよお、わあかあるうかあらあ(日本語でいいよ、分かるから)」のように、極めて聞き取りにくい発語となる。
おそらく、私がニース空港でやっていたのはこれだ。本人はできているつもりでしゃべってはいるのだが、相手にはなかなか通じない。だとしても、その溝を埋めようと、努力はするし、時に報われることだってないわけではない。それがこの経験で何となくはわかったような気がする。だとしても、私にとって、これは旅先のほんの一瞬の出来事でしかない。そして、一瞬だというのに、言い知れぬ徒労感がある。
聞こえないことは、欠落なのか。英語やフランス語ができないことは欠落なのか。それらを同列に並べることに意味があるかどうかはともかく、「そういう自分」であることを、何らかの欠陥として捉えるのではなく、そのまま受け入れ、その中でいかにやっていくか、どう乗り越えていくかを考えたいと思う私がいる。努力も、工夫もいるだろう。けれど、それは、どちらか一方になにかが足りないからではなく、それぞれがそれぞれの在り方を認め合いながら、互いに歩みあうようなものであっていいのではないか。話し手に、話そうとする努力、伝えようとする努力があるように、聞き手にも、聞こうとする努力、理解しようとする努力があっていいのではないか。うーむ、それは単に自分の語学力のなさの言い訳に過ぎないのか。そもそも同列に語っていいことなのか。
あれこれ考えながら空港をさ迷う私であった。この本は、本当にいろいろなことに気づかせてくれるし、考えさせてくれる。生きる世界が広がる本であった。
