映画「リンドグレーン」

映画「リンドグレーン」

2021年7月24日

映画「リンドグレーン」ペアニレ・フィシャー・クリステンセン監督

映画「リンドグレーン」を見てきた。ネタバレも含むので、これから見る人は、以下の文を読まないでくださいね。

リンドグレーンは私の心の師である。彼女が亡くなった時、私をよく知る友人の一人が「大丈夫?」とまるで身内が死んだみたいに心配してくれたほどに、私の人生の支えとなっている人である。子どもの頃、何度「長くつ下のピッピ」シリーズを読み返したかしれない。今も黄色くしわくちゃになった箱入りのその本は、大事にとってある。

彼女に関わる本はたくさん読んだ。若い頃、未婚の母として苦労したことも知っていた。第二次大戦中に、秘密裏に手紙の検閲の仕事をしていたことも、年配になってから、若い読者と個人的に文通していたことも。そういったいろんなエピソードを知った。知るたびに、彼女の知らない一面、新しい側面がわかったが、いつも彼女は尊敬の対象であった。

でも、この映画を見たら、リンドグレーンといえども、若い頃は結構、馬鹿なところもあったんだな、という当たり前のことに気がつけた。だけど、自分にとっていちばん大事なものは何なのかを見据える力はちゃんとあって、それを守るため全力で戦い、生きた人だと改めてわかった。立派で優れた人であるだけでなく、失敗もあれば愚かしいところもある。そう気づいたら、リンドグレーンがもっと身近になって、もっと好きになった。見上げるだけではない、一人の生き生きとした人間として、大事な友だちのような気持ちにもなった。

厳格なクリスチャンの家庭に育ったアストリッド。(リンドグレーンというのは結婚相手の姓なので混乱を防ぐためにここではアストリッドと書く。)礼拝中にもじもじしては駄目、女の子だから早く帰宅しなくては駄目。内側にあふれるエネルギーを持て余して、ダンスホールで男性のエスコートも受けずに一人でむちゃくちゃに踊るシーンが印象的だ。彼女の文才を見抜いて新聞社の助手にした編集長の子を18歳で妊娠してしまう。決められたことだけをやる生活から引き抜き、文章を褒め、大人たちに混じって取材に連れていき、社会を見せ、彼女が彼女であることを認め、愛してくれた中年男に心が動いちゃう少女の気持ちはわからんでもないぞ。でも、それはとても愚かなことなんだよね。大人(である私)が見るとわかるけど、でも18歳のアストリッドにはわからない。その事自体も、よくわかる。

離婚係争中で、離婚成立までは内密にしたいという中年男も、妊娠を隠せ、家をでていけ、子供を里子に出して忘れろと言った両親も、悪い人たちではない。みんな、自分の信じる正しさに基づいて、それに従い、誠実に生きている。ただ、アストリッドとは大事にしているものが違うだけだ。そして、アストリッドは、自分が一番大事だと思うもののために、どんなに苦労しても頑張った、戦った。

私は学生時代、スウェーデンの女性運動家エレン・ケイのことを調べていて、思いがけなくリンドグレーンの名前に突き当たって驚いたことがある。若い彼女は、子供を産むために、エレン・ケイに相談に行ったらしい。映画では、女性運動家の弁護士の助力を得ているが、そこにたぶんエレン・ケイが絡んでいたのだろう。彼女はデンマークで出産し、赤ん坊を里親に預けてストックホルムで働き、休日ごとに会いに行く。

出産シーンに結構な時間が割かれていたのだが、秀逸だった。自分の出産を思わず思い出した。主演のアルバ・アウグストは出産経験があるのだろうか。頑張ったなあ。飢えに苦しみながら働き、引き取った子どもには帰りたいと言われ、苦労を重ねるが、のちの結婚相手のリンドグレーン氏にも助けられ、ついには実家に我が子を連れて行って迎えられ、笑顔で、みんなで堂々と、隠さずに教会の礼拝にいく。美しいスモーランドの自然の中で、映画は終わる。

結婚相手となるリンドグレーン氏がなかなかのイケメンである。一緒に見た友人に言わせると、「そこだけいきなりハリウッド映画になったみたいで、イケメンすぎて内容が入ってこない」ほどだ。でも、あとから資料を調べたら、本物のリンドグレーン氏も結構はイケメンであったから、これは史実通りなのだよ。

実家のみんなに受け入れられて、そこで終わる、のはなんだか尻切れトンボな気がする。そうなの?そこなの?とも思う。そこからどうやって彼女が作家になったのか、も見たいよなあ、とやっぱり思う。これって家族映画だったのか?

ところで、私も厳格なクリスチャンホームに育って「してはいけない」リストの中で育った。じっとしていられない、人の言うことを聞けない子どもだったから、叱られたり否定されてばかりいた。本さえ与えれば頭が良くなるかも、おとなしくなるかも、という親の発想で、中身も見ずに与えられたのが「長くつ下のピッピ」である。ところが、ピッピは、親も面倒を見てくれる大人もいない、たった一人で暮らす小さな女の子だった。何だって好きなことをやっていい。学校なんていかなくてもいい。力持ちだから、何でも持ち上げられる。(小さな子にとって、力がある=無力ではない、ということがどんなに自由で魅力的なことか、覚えている?)トランクいっぱいの金貨を持っているから、お金にも困らない。

私は、賢く良い子になれ、と親から与えられた本で、いかに大人の言うことを聞かないか、いかに規則から逃れるか、いかに好きに振る舞うか、いかに自由にあれるかを夢中で学び取ったのだ。以来、ピッピは私の太陽であり、親友であり、目標であった。そんなピッピを生み出したリンドグレーンという作家は、私のあこがれと尊敬の人となった。

リンドグレーンも、抑圧の強い家庭に育ったのね、じっとしていられなかったのね、と笑ってしまう。子どもが大事で、守るためなら何でも捨てたのね、と頑張ったのね。その時、同い年くらいでそばにいたら、抱きしめたのに、友だちになったのに、と思う。彼女も、愚かな少女だった、人生を戦った、新米の母としておろついた、我が子の心がわからなくて苦しみもした。リンドグレーンは遠く仰ぎ見る人ではなく、私と同じ、一人の女性だったのだ。

2020/1/24