あらゆることは今起こる

あらゆることは今起こる

2024年10月1日

108 柴﨑友香 医学書院

ADHDと診断された作家の内側で何が起こっているのか。それを日常のあらゆることから書き起こした本。私はこの人の「待ち遠しい」という作品を読んだことがある。その本の感想で、内面で何が起こっているのかよくわからない、と書いた。そうか、それでよかったんだな、と思った。内面にあらゆることがありすぎてよくわからない。そういう状態が小説にされていたのだ。

前にも何度か書いたことがあるが、私は、診断こそ受けてはいないが、おそらくADHDの要素を多分に持っている。父はASD、母はADHD要素バリバリであり、姉はその両方を併せ持っていると思われる。家族全員が発達障害的であったため、人とはそういうものであると思い込んで育った。つまり、ドアを閉めて外に出た後、忘れ物を取りに帰るのは当たり前のことであり、モノを置き忘れたり、なくしてしまったりは日常的によく起こる出来事であり、うっかり道順や待ち合わせ時間を間違えたり、人の言うことを正しく理解できなくて困った事態に陥るのも、それが生きるということであった。家族の中では、私はむしろ最も失敗が少なく、しっかり者という位置づけがなされていたが、家を出て結婚すると、健常(!)である夫に「なぜそんなことが」と驚かれることがたびたび起こったのだった。

この本に書かれた、彼女の内面に起きている、あるいは感じられている様々なことは、非常に卑近な感覚であった。それは私の内面にあるものであったり、あるいは家族の誰かに特徴的なものであったりして、すべてが一人の人間に集約されてはいないのだが、「ああ、わかるわかる」「例のあれね」的な理解がたやすかった。逆に健常(!)な人は、そういう感覚がないのか…と改めて思ったものだ。

作者は、いつも眠くて眠くてたまらない人生だったという。どんなに好きな映画でも最後まで眠らずに見通せない。何かを終えたり、午後になると疲れてどこかでどうしてもひと眠りしたくなる。それが、コンサータという薬を服用してからは「目が覚めた」のだという。目が覚めるってこういうことやったんや、と思ったという。映画も最後まで見られるようになった。

私も幼いころから眠い人であった。朝はいつだってできればずっと寝ていたいと思っていたし、通学中も、授業中も、仕事中も、できたら眠りたかった。大好きなテレビ番組を見ていても、気が付くと居眠りしていた。苦労して手に入れた高い高い歌舞伎の席でぐっすり寝てしまったこともある。私の場合は睡眠時無呼吸症候群のためのCPAPという治療器具を得てからは、そういうことは激減したが、そもそもが睡眠障害気味だったことは確かである。明日起きれないかもしれないと思うと、夜眠れなくなる。眠っても夢の中で何度も起きては朝の準備をすべて終え、それが夢だったことに気づいて絶望することを繰り返して朝を迎える、という本書のエピソードそのものの経験が思い当たりすぎるほど思い当たる。

どんなに頑張っても、何かを忘れるという失敗を私は繰り返す。財布を忘れて買い物に出かけることは、ものすごく頑張ってかなり減ったのだが、それでも数カ月に一度はやってしまう。夏、密室になるトイレがあまりに暑いので、小型バッテリーで動く扇風機を設置したのだが、これを止めるのを忘れて出てしまう。すると、次にトイレに入るまでずっと回り続けるので、バッテリーがあっという間に消費される。これは、夫に強く注意されたし、私自身もスイッチを入れる時に「絶対に忘れないようにしよう」と毎回自分に言い聞かせる。だのに、何回かに一度は忘れてしまう。そんなことがなぜできないのか、健常(!)の人には理解できないのもわかる。でも、これは努力や根性では治らない。それ以外の、例えば何らかの具体的な工夫が必要なのだ。…ということを夫に切々と訴えたら、夫は「扇風機」というメモをトイレに貼ってくれた。ひとつ貼ってしばらくしてまた止め忘れが起き、二つ目も貼った。それでも同じことが起き、ただ、忘れた、ということを次にトイレに入る前に思い出して、散歩先から帰る、という事態があった。私は努力している、頑張っても忘れてしまう、というと開き直りのように聞こえるのもわかる。わかるが、もう絶対にしません、とは言えない。なぜなら、やるから。頑張ってもやってしまうのが、わかっているから。もうしないというと、嘘になるから。

学校で忘れ物を頻発する子どもに教師が頭ごなしに叱り、「ごめんなさい。もう絶対に忘れません」と言わせて、そしてまた忘れものをする。その結果、子どもは、ただ忘れ物をしただけでなく、約束を破った嘘つきにまでされる。そんな風景を、何度も見てきた。わたし自身も、忘れ物をしがちではあったが、学業に支障が出るほどではなかったように思う。今思い出すと、忘れ物をするのが怖いばっかりに、あらゆる教科書類をすべてランドセルに入れて持っていっていたような記憶もある。叱られている同級生を見るのはつらかった。それは、私でもある、としか思えなかった。

次々といろいろな思念が浮かんで、それぞれに気を取られてしまうから、なかなか必要なことに取り掛かれなかったり、時間に間に合わなかったりするのが、ADHDのひとつの特徴である。私の場合は、時間には割合、間に合うタイプではあるのだが、次々いろいろな思念が浮かぶことは間違いない。常に、何かを考え、その対象がくるくると変わり、しかも、それを知りたくて考えたくてたまらない状態が続く。道を歩いているとき、すれ違う人が、今、何を考えているのか、どこから来てどこに行くのか、これまでどんな経験をしてきたのかを一人一人に聞いて回りたいような気持ちになる。何かが起きると、それがなぜ起こったのか、原因が知りたくてならないし、例えば誰かに嫌なことをされたとしても、それに腹を立てると同時に「なぜこの人はこんなことを私にしたのか、どんな原因があるのか、どういう思考を経てこういう行動に至ったのか」知りたくてたまらなくなる。もしかしたら、怒りよりそっちの好奇心のほうが勝ってしまうかもしれない。つまり、非常なる知りたがり屋なのである。脳が暴走するのである。

ADHDの特性に、「今、ここ」に注力する、というのがあるらしい。また、ASD特性は「同じ状態が続く」感が強いらしい。私の父は晩年、グループホームから病院に移され、最後は何も食べられないような日々が続いたが、最期を迎えたとき、母は「まさか死ぬとは思わなかった」と言った。どこから見ても時間の問題であったというのに、母は現実に出会うまで、一度たりとも父の死を想像しなかったという。そういえば、父がひどい認知症で手に負えなくなった時も、生活を変えたり、施設にいれたりすることを全く発想もしていなかった。今までそうであったのとまったく同じようにこれからもずっと変わらぬ日々を過ごすことしか考えていなかった。まさしく「今、ここ」だけを彼女は生きてきたのだ。

作者は、ADHDは「できないこと」ばかりが注視されるけれど、「できること」だって注目してもいいという。彼女が小説を書き続けられるのは、「あらゆることがいま起きる」と感じられるからかもしれない。

私がやたらと本を読んでは感想を書き散らかすのも、私の内面的な思念の暴走が動機になっていると思う。本を契機に、様々な考えが浮かび、それをどうにか整理して吐き出さないと脳がぱんぱんになる。私はこう思ったのよーーーーとどこかに言語化しないと、脳の容量を超えてしまうのかもしれない。

先日、実家で母の部屋の片づけを手伝っていたら、なんと祖母の日記やら作文が大量に出てきた。祖母が亡くなったときに、母の実家から持ってきたらしい。ただでさえモノが多いのに、こんなものまで取ってあったのか…と呆れたのだが、それにしても驚くほど長い期間にわたって毎日日記が書かれている。しかも、一時間歩いて役所まで行ったら印鑑を忘れたのに気づいてまた取りに戻ったなんて話が書いてあったりして、おばあちゃん、ADHDじゃん!と笑ってしまうのである。遠い昔から、似たような人が延々と同じようなことを繰り返し、失敗したり困ったりしてきたのだろう、と思う。そこから、各時代の様々な祖先の姿の想像が、私の中で暴走を始める…。

この本には、私の好きな探検家、高野秀行氏の話も何度か出てきて、彼もADHDグレーゾーンと診断され薬を飲んだらびっくりするくらい頭がすっきりしたらしい。何しろ45歳まで歯を磨けなかっただの、昨日、服がたためるようになっただの言ってるそうだから、そうなんだろう。グレーゾーンと言われたのは「本人が困ってないから」であって、でも、彼が取材に行くイスラム世界なんて、約束の時間に間に合わないのなんて当たり前だし、みんなで出かけて一時間後に忘れ物をしたと言ったら、当たり前のように全員でぞろぞろ取りに帰って誰も怒らない、なんて環境だから、困らないっちゃ困らないわけだ(笑)。高野さんもADHDなら、まあいいや、とちょっと思ってしまう私である。私は探検もしないし立派なノンフィクションも書かないし、柴﨑さんみたいに芥川賞もとらないが。でも、同じ時代を生きる仲間であるし、似たような困難を抱えながら、なんとか自分と付き合っている。それでいいじゃん、と思う。開き直りではなく。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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