「故郷の我が家」村田喜代子
村田喜代子さんは、私の大好きな作家で、この人の書く物語は、まるでおいしい水のように、ごくごくと飲み干せてしまいます。
久住高原にある築八十年の世家を処分するため、65歳の笑子さんが飼い犬のフジ子と東京からやってきて、家を片付け、相手先を見つけて売却する、それだけの話です。
それだけの話なのに、なぜこんなに面白いんだろう。
深い自然に囲まれた高原の中で、古い道具を片付けながら、笑子さんは思い出に浸り、疲れて眠り、早朝に目覚めてはラジオを聞きます。
ご近所に烏骨鶏の卵を分けてもらいに行ったり、連れ立って村の寄り合いに出たりもします。
そして、その合間合間に、夢をみるのです。
古い道具と思い出と深い自然、雲海や立ち込めた霧、夢と妄想が入り交じって、どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、その継ぎ目が時としてわからなくなります。
亡くなった家族や友達も、失われたわけではなく、地続きで側にいるような、あの世とこの世も境目がはっきりしないまま繋がっているような、夢と現実も大して変わらないような。
この不思議な世界が、とても心地よいのです。
最近、我が家も、夫の実家を処分し、残されたいろいろなものを片付けたりしたばかりなので、余計に身に染みるのかもしれません。
村田さんの物語を読むことは、私には夢を見たり妄想を広げるのと同じ様なことなのかもしれません。
私はよく夢を見ます。
寝る前に印象づけられた物事は、たいてい、夢に出てきてしまいます。だから、夜、怖い映画や、恐ろしいニュース報道などはあまり見たくないのです。単純すぎる、と夫に笑われますが、呆れるくらい、あっさりと現実が夢に投影されて来ます。でも、夢は夢でしかなく、朝起きて、夕べ見た夢の話をするとき、私はもう安全で、大丈夫な世界にいるのだとわかります。
妄想も、よく広げます。
家族の帰りが予定より遅い時など、私の妄想の中で、彼らは次々と恐ろしい事故に合い、私に助けを求めます。でも、私は彼らが本当はどこにいて、何をしているかしらないので、助けることもできないのです。
・・・・でも、それは、全然本当のことではなくて、家族は、無事に帰ってきます。ちょっと楽しすぎて長っ尻になったり、仕事が立て込んでいたり、混雑が激しかったり、ありふれた事情があるだけです。
私は、自分の広げてしまった妄想が、雲散霧消していくのを感じます。そして、ものすごく、ほっとします。もしかしたら、この安心感を楽しむために、わざと恐ろしい妄想が起きているのかもしれないとさえ思えます。
村田さんの物語は、それと同じ・・・かな。
不思議な世界がどんどん広がり、それは美しく心地よいものもあるけれど、恐ろしかったり、孤独だったり不安だったりすることもあって。でも、最後には、とても落ち着いた穏やかな気持へ戻っていく。根底にある、穏やかな、何もかも受容するような、少々の諦めと客観と、そしてユーモアの入り交じった村田さんの心持ちが、私を静かに包んでくれる。
そんな気がします。
2010/5/20
