バイ貝

バイ貝

2021年7月24日

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夫が「これ、読む?」と尋ねてきた。図書館の期限は差し迫っているが、どうやら読むことを薦めたいらしい。そういう時の本は、大概ヒットするので迷わず読むことにする。

読後、「いったい、この本で作者は何が言いたかったんだ!?」と私が嘆息していたら、「そりゃ、そのまんまでしょ」と夫が言う。「欝を散じるってこと?」「そう。」「これは、純文学なんだな?」「もちろん。」「なるほど、それならわかる気がする。」

というわけで、これは純文学です、皆さん。まかり間違っても、外見に騙されて、エンタテイメント小説だなんて思わないでください。なんたって、芥川作家だもんね。

町田康は、文体が好きじゃなくて、避けてきたところがある。でも、この本に関していえば、文体は全然、邪魔にならない。というか、いつ、本題に入るのか?と思っている内に終わっちゃうくらい、じゃんじゃん読み進められた。いいのか、それで。

読んでいて、なぜ夫が私にこれを勧めたのか、すごくわかった。もう、共感の嵐。だからなんだってんだ、って思うような共感の嵐。

作者は、心のなかに鬱がたまると、それを散じるためにカネを遣う。ただ、それだけの物語である。

 理論的には六千円で宝くじを買って欝を散ずることによって千円分のハッピーが生じるはずであったのが、実際的には、およそ六万円分のハッピーが生じていたのである。
これは正味の話、驚くべき数字で、私自身、こんなハッピーな感じになるとはまったく予想しておらず、なぜこんなことになるのだろうか、と考え、そしてわかったのは、この籤は未来に向けてそれだけの価値を内蔵・内包している、ということであった。(中略)

ではそれは一体どんな価値なのか。それは三億円という下品なくらい凄い価値である。もちろん、それは私の買った籤が一番に当たったら、という仮定の話で、理論上はそれもあり得るが、まあ、実際のところは、四番の百万円か五番の十万円、というところで、それは私の心のなかの欝の総計、八万円を余裕で解消できる金額である。
というところまで考えた時点で、私はそんなにハッピーではない。会計士のごとき冷静さで、欝と銭のバランスシートをチェックしているのみである。ところが次に、じゃあ、仮に五番の十万円が当たったら私はなにを買うのだろうか。ということを考えだした途端、私は俄然、ハッピーになってくるのである。
十万円といえばけっこう凄い金額である。十万円あれば大抵の日常的な欲望を満たすことができる。(中略)

そのハッピーな状態を暫く楽しんでいると、私は次のステージに入る。
それはさらにハッピーな状態で、どうなるのかと言うと、ハッピーな気分でいると気持ちがハッピーなので考えることもハッピーになっていき、五番の十万円が当たるということを考えるうち、それは必然的に四番の百万円が当たったらどうしようかということを考えてしまうのである。
百万円ということはどういうことかと言うと、十万円が十個あるということである。さらにいえば一万円が百個あるということである。もっといえば、千円なら千個、百円なら万個、十円なら十万個、一円なら百万個あるということで、つくづく凄いことである。恐ろしいことである、とさえ言える。

ここを読んで、夫が私に薦めた訳がわかった。私は、宝くじを買うと、いつもこうなっちゃうのだ。極めて冷静に購入するのだが、暫く経つと、どんどん妄想が膨らみ、その海の中に浸り、カネの使途に呻吟し、悩み、苦しみ、最後にはへとへとになって当選発表を迎えるのである。そして、「ああ良かった、当たらなくって。」と、力なく呟くところで終わる。だから、宝くじは買っちゃいけない、体力を奪われるもの、と思うのだ。

人生なんて、些細なことの連続だ。そして、ちょっとした事で、気持ちはいくらでも揺さぶられる。天下国家の大事だけで世の中は動いているわけではない。

いつ本題が始まるんだ、と思いながら読んだこの本の中に、実は人生の真実が隠されているのかもしれない。そういう意味で、これは優れた純文学なのである。

(引用は「バイ貝」町田康 より)

2012/6/8