街場の読書論

街場の読書論

2021年7月24日

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「街場の読書論」 内田樹 太田出版

夫が借りてきた本。
面白かった?と問うと、ほぼブログに書いてあったことだからね、いつもの内田節だよ、と。なるほど、確かにいつも言っていることばかりが書いてあったけれど、この人の論はやっぱり面白いなあ。

などと、ぐふぐふ言いながら読んでいたら、そこへ風呂から出てきたおちびが通りがかり、「お母さん、その本、面白いの?」と尋ねる。ちょうど、ウチダ先生が中学二年生の国語の教科書用に書き下ろしたという文章を読んでいたところなので、中二のおちびに「読んでごらん」と渡してみた。おちびは、入浴後の体を扇風機で冷やしながら読んでいたのだが、顔を上げると「ケッ」というのである。「お母さん、この人、本当にオモシロイと思ってるの?こんな本がほんとうに面白いの?」実に、心外そうである。

そこには、こんなことが書いてあったのである。

「学ぶ力」
日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎭めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。
「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみる上では参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。
「学力」と言う言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。私はそう思います。
(中略)
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件を一言で言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。

なるほど、日々、試験の点数をあげることに苦心しているおちびにとって、ウチダ先生のいうことなど、机上の空論にすぎない。いくら無知を痛切に自覚していようと、点数を上げない限り、間違いなく彼女は「学力が低い」と認定を受けるのである。こんな、精神論、きれい事を述べ立てるわけのわからないオトナなんて、彼女から見たら、「ケッ」であろう。それは、わからんでもない。

けれど、私はウチダ先生は正しい、とやっぱり思うのである。なんていったら、おちびは、「おかあまでがそんなオトナなのかいっ!」という顔をする。そうだね、現実に、あなたは、テストでいい点を取ることで内申点を稼ぎ、少なくとも自分の納得する高校に合格しようと考えているし、母もそれを応援してはいるのだよ。だとしても。

学問というのはそもそも、何のためにあるのか、とつくづく思ってしまうのだ。とても優秀な成績で、とても立派な大学を出た、日本の最高頭脳であるはずの保安院や東京電力の幹部たちが、原発の事故に対して、うわ~っと顔を覆って、何もできないでいた、何一つ判断することも、行動することもできないでいた、あの現実を思うとき、私は学力って何?と思ってしまう。

ウチダ先生は、この本の中で、レヴィナスの哲学の目的について、こんなふうに書いている。

 知的・情的・霊的に成熟した市民だけが粛清や強制収容所や「最終的解決」に対してはっきり「ノー」を告げることができる。この世界の様々な不正、収奪や差別や迫害に対して、「それはフェアじゃない」と言い切ることができる。そのために一歩踏み出すことができる。政治体制や信教や言語や文化的差異にもかかわらず、どこでもいつでも、そういうふうに「まっとうに判断し、まっとうにふるまう」ことができる成熟した市民の数を一人でも多く確保すること。

また、別のところでは、こんなことも書いている。

 金があること、高い地位にあること、豪華な家に住んでいること、高い服を着ていることを端的に誇らしく思い、能力のある人間が優雅に暮らし、無能で非力な人間たちが路傍で飢えているのは自己責任なのである。能力がある人間が高い格付けを受け、無能な人間が軽んじられ、侮られるのは適切な考課の結果であり、それが社会的フェアネスなのだと公言するような人々がオピニオン・リーダーになりました。
私はそれを「良くない」と思っています。
共同体はメンバーのうちで、もっとも弱く、非力な人たちであっても、フルメンバーとして、自尊感情を持って、それぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されなければならないと思っているからです。それは親族や地縁集団のような小規模の共同体でも、国民国家や国際社会のような巨大な共同体でも変わりません。
もっとも弱く、非力なものとともに共同体を作り上げ、運営してゆくためには、どうしてもそれなりの数の「大人」が必要です。十分な能力があり、知恵があり、周囲から十分な敬意や信頼を得ている者は、その持てる資源を自己利益のためではなく、かたわらにいる弱く、苦しむ人達のために用いなければならないと考える「大人」が必要です。
社会問題はぎりぎり切り詰めると、実践的には「どうやって大人を育てるか」という所に行きつきます。私はそう思います。社会全体を一気に、全体として「正しいもの」にすることはできません。でも、社会はフェアで、手触りの優しいものでなければならないと信じ、そのために自分の持てる力を用いる「大人」たちの数を少しずつでも増やすことは可能です。

私は、学問、教育の目的とは、そうした「成熟した市民」や「大人」を育てることにあると思っている。思ってはいるけれど、うまく言葉にできないでいたら、ウチダ先生が、いろいろな本で、ぴたりぴたりとそれを言い表してくれているので、私は読んでいて、実に面白いと思うのだ。だけど、今、現実を生きているおちびには、それが欺瞞に見えるのだよなあ。

この世を作っているのは私達オトナだからね。結局、学問や教育をダメダメなものにしているのは、私たちなのだ。

おちび、私は本当に、学力って数値じゃないと思っているからね。だから、テストの点で怒ったことはないでしょう?ただ、何がわかっていて、何がわかっていないかがわかってよかったね、としか言わないのは、私はあなたが、ちゃんとわかりたい、と思っていることを知っているからだよ。

といったところで、競争社会のただ中にいる彼女には、やっぱり詭弁にしか聞こえないのだろうなあ。

(長い長い引用はすべて「街場の読書論」内田樹 より)

2012/7/14