原発事故はなぜくりかえすのか

原発事故はなぜくりかえすのか

2021年7月24日

81「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎  岩波新書

原子力情報室を設立し、長きにわたってその代表を務め、生涯をかけて原発問題に取り組み、2000年にがんで逝去した著者の遺作である。死期を意識しつつ、最後の力を振り絞って録音テープを残し、初校ゲラは見たいと言いつつ、それも為せずに亡くなられたという。編集部のあとがきでそれを知って、私は胸をつかれた。語りかけるような文体は、まさに、最後の語りそのものであったのだった。

この本では、もはや技術的な問題は、それほど追究されていない。その代わりに、原子力をめぐる様々な人間的な問題・・いわば、文化論、文明論とでもいうべき問題が書かれている。原子力発電というものに対する思想、哲学の不在が指摘されている、と言ってもいい。それは、あくまでも穏やかな文章でありながらも、原子力ムラの人びとへの痛烈な批判ともなっている。

物理屋さんが、コンピューターのシュミレーションを行い、理論的に原子力を扱い、放射能を制御することの危険性を、この本は指摘している。実際に、その手で放射能を扱い、実験を繰り返すと、理論上は漏れないはずの放射能が、漏れる。そして、その危険は、まさに我が身にかかってくる。理論でうまくいくことが、現実には、なかなかそのとおりには行かない、いろいろな問題が起きてくる、ということを、実際に経験し、身にしみて理解する、そういう経験がない人たちが、原子炉を作り、扱っていることの怖さを、高木氏は繰り返し語っている。

JCOの事故は、原子力の事を知り尽くしているかと思われた人たちが起こした。彼らは、実は、放射能を知らなかったのだ、と高木氏は指摘する。原子力発電を推進している人たちは、実は、放射能を、知らない。わかっていない、理解していない。その事実を、様々な角度から、高木氏は、指摘し続けている。原子力産業は、議論なし、批判なし、思想なしである、とはっきりと言っているのだ。

これは原子力だけの問題ではない。学問というもののあり方が常に抱える問題だ。書物や、コンピューターによるシュミレーション、膨大な情報がもたらす知識は、実は机上のものにすぎない。そして、我々は、この現実を生身の生として、生きている。現実と、理論の間ある大きな隔たりを、様々な学問を追求する者たちは、いつの間にか忘れる。そうして、理論で操作できる情報こそが真実だと思い込んでしまう。

さらには、理論こそがすべてであるとして、現実のほうを改ざんしようとする場合まである。あるいは、現実を捨て去ることこそが、正義であるとさえ。

もうなくなってしまったパルティオゼットのSNSの中で、私は若い人達と何度も討論をした。そうして、彼らの理論に対して、経験しなければ分からない、経験が大事だ、経験して初めて分かるだろう、と言い続けた。そんな事言われたって、こっちは経験してないんだからずるい、大人って、大人ぶっている、と非難されたことも度々ある。けれど、私は、どうしても、経験することの大事さを伝えたかった。その手で、その体で、実際に行い、創り上げ、感じ取ったことこそ、真実であり、経験への謙虚さこそが、学ぶ者としてのモラルであり、必要な姿勢である、と伝えたかった。

その事を、この本を読みながら、私は思い出していた。高木氏は、もっともっと伝えたかっただろう。もっと、やりたかっただろう。

彼が、62歳という若さで癌でなくなったことと、若い頃に原子力研究で時に無謀とも言える放射能の研究を行ったことは、決して無関係ではないだろう。いま、高木氏が、福島の現状を知ったら。そう思うと、私は胸がつぶれるような思いがする。

2011/7/25